昔日への思慕
2
既に日付は変わっており、海藤達は病院の職員達の通用門から中に入った。
薄暗い廊下を父親の側付きの部下に案内されながら、海藤はもう何年も会っていない両親のことを考えていた。
−−−
菱沼の部下として、開成会の若頭にまでなっていた海藤の父、海藤貴之(かいどう たかゆき)は、菱沼の引退と共に自分
も一線から退いた。
それと時間を同じくして九州に居を移したのは、これから会の頭となる息子に自分の影響を及ぼさないつもりだったのかどうか、
海藤には分からないが、菱沼もそれを許し、母親も黙って付いて行ったことは何かしらの意味はあったのかもしれない。
伯父である菱沼に引き取られたのはまだ小学生の頃だったが、海藤はその頃から自分の生活環境の特異性を理解してい
た。
ほとんど家に戻ることのない父。
その父ばかりを想い、頻繁に会いに行っていた母。
泣き喚き、傍にいて欲しいと懇願するには、海藤はあまりにも大人びた賢い子供だった。
ほとんど育児放棄のような家庭の中で、海藤は文句も言わず、ただ時折来る男女が自分の父と母なのだと思うだけだった。
菱沼に引き取られて、極道の英才教育は受けたものの、海藤は初めて家庭というものがどんなものであるかを知った。
カレーライスが、家で作れるものだと始めて知った。
テストで良い成績を取れば、頭を撫でられ褒められることを知った。
風邪をひいた時は、誰かがずっとついてくれるものだということを知った。
家の中に自分以外の人間がいる温かさを・・・・・初めて知った。
今でも菱沼や、大東組の幹部の本宮の口からも名前が出るほど、海藤の父貴之は能力があった男らしい。
今の開成会の、暴力を伴わない資金作りを菱沼と共に推し進める一方、単独で敵対する組に乗り込む男気もあった。
それ程の男には女も寄ってくるようで、父親には母親以外に何人もの女がいた。
本妻という座に座っていた母親は、摘み食いのような女遊びは鷹揚に受け入れていたが、さすがに他の女に子供が出来た時
は騒ぎになったらしく、海藤の数ヶ月違いの弟・・・・・宇佐見貴継(うさみ たかつぐ)が生まれた時は大変だったと教えてくれた
のは菱沼だった。
音信不通というわけではない。
居所は知っていたし、連絡手段もあった。
しかし、海藤は開成会を引き継いだ日から、一度も両親には会っていなかった。
会いたくないとは思わない。
しかし、会いたいとも思わなかった。
西原真琴という人間を手にして、海藤は確実に変わった自分を自覚している。
誰かを愛し、大切に思う人間らしい感情が自分にもあるということを初めて知った。
普通ではない自分の世界に、ごく普通に育ってきた真琴を引ずり込むことを可哀想に思うが、海藤は後悔はしていない。
自分にはどうしてもこの存在が必要だった。
自分が人間であると、心があると自覚出来るのは、真琴という存在があってこそだからだ。
−−−
「海藤さん」
ぼんやりとしていたのだろうか、海藤は遠慮がちにスーツの裾を引っ張る真琴を、思わずまじまじと見つめた。
「大丈夫ですか?」
「ああ・・・・・心配することはない」
「でも・・・・・」
真琴としては当たり前の感覚で、両親のことを心配しているのだろうと思っているのだろう。
しかし、海藤は不思議なほど何の感情も湧いてこない。
傷の心配だとか、失うことへの恐怖だとか、自分でも冷たい人間だと思うが、少しもそんなふうには思えないのだ。
「こちらです」
さすがに一般の病院なので、あからさまな風体の人間はいないが、それでも気配を消した何人かの姿は見えた。
病気や事故での入院ではなく、事が事だけに菱沼が手を回したのだろう。
(だとすれば・・・・・大東組の人間か)
鋭い視線を走らせながら、海藤の手は無意識に真琴の腕を掴んでいる。
その手の力は予想外に強いのだろう、真琴は時折痛そうに眉を顰めたが、それでも海藤には何も言わなかった。
「・・・・・」
「どうぞ」
案内されたドアの前には名前の札は下がっていない。
倉橋が先に立ってスライド式のドアを開いた。
「・・・・・」
特別室なのだろう、かなり広い部屋で、一般の病室のように真っ白という印象ではない。
ソファにテーブル、小さなユニットバスまで備えられているらしい部屋の中央、窓際のベットに二つの人影があった。
一つは、白いベットの上、様々な器具を取り付けられて横たわっており、もう一つはイスに腰掛けた姿で、そのベットに上半身を
倒れ込ませ、まるで添い寝するように座っている。
薄紫の着物を着こなし、綺麗に髪を結い上げた女・・・・・。
「・・・・・」
人の気配を感じたのか、女はゆっくりと身を起こして振り向いた。
「・・・・・貴士さん?」
まだ、少女のような面影を残す女は、不思議そうに海藤を見つめている。
もう何年も会わないのに海藤のことを分かったのは、多分父親の若い頃の面影によく似ているからだろう。
「容態は」
「手術は成功しました。幸いに内臓を傷付けないまま弾が貫通したそうだから、感染症さえ起きなければ直りは早いって言わ
れたわ」
「・・・・・そうですか」
その言葉に、海藤は溜め息をついた。
「伯父貴に連絡したのはあなたですか?」
「だって・・・・・貴之さんが死んじゃうと思ったのよ・・・・・」
(・・・・・人騒がせな)
菱沼からの一報は、まるで今にも死にそうだという感じだった。
多分、この母親の言葉を鵜呑みにしたのだろう。
それは多分に菱沼らしくはなかったが、さすがの彼も可愛い妹の言葉には動揺してしまったのかもしれない。
「それで、それから伯父貴に連絡は?」
「・・・・・してないわ。貴之さんにずっとついていたから」
「・・・・・」
これはこれで予想がついたことで、海藤はチラッと倉橋に視線を向ける。軽く頷いた倉橋は黙って病室を出て行った。
これから関係各所への連絡をしなければならないのだ。
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