昔日への思慕
3
(良かった・・・・・)
命には別状がないことを知った真琴は、やっとホッとしたように溜め息を付いた。
そっと隣に立つ海藤の横顔を見ても、その顔色がついさっきまでよりは全然良くなっているような感じがした。
(・・・・・あ)
「海藤さん、俺ちょっと廊下に出てますね」
「真琴」
「ゆっくり話してください」
身内同士でしか話せないこともあるだろうと、真琴は引き止めようとした海藤に軽く手を振って廊下に出た。
(待合室にでも・・・・・)
「どちらに行かれますか?」
「え?」
病室の前には4人の男が立っていた。海藤が連れてきた2人と、見知らぬ顔の2人だ。
(え・・・・・と、確か、安芸(あき)さんだっけ?)
「ちょっと、待合室に行ってきます」
「お供します」
「い、いいですよ、俺なんかじゃなく海藤さんの側に・・・・・」
「会長からあなたの身の安全をくれぐれも言い渡されていますので」
海藤より少し年上といった感じの、短髪でがっしりとした体躯の安芸は、海藤の言葉を忠実に守るというように真琴の側に付
いた。
「・・・・・すみません」
考えれば、中には銃で撃たれた海藤の父親が入院しているのだ。
真琴にとって病院は怪我や病気を治してくれる所で危険などとは正反対の位置にあると思っていたが、海藤達にしてみればた
とえ病院内でも完全に安心だとは思っていないのだろう。
その証拠のように何人もの護衛がいるのを見て、真琴は安易に考えていた自分を反省した。
「真琴さん?」
同じ階の休憩室の前を通り掛かると、ちょうどエレベーターから出てきた倉橋と出会った。
「どちらに?」
「ちょっと、お茶でも飲もうと・・・・・」
「・・・・・では、こちらで」
真琴の考えを直ぐに察したのか、倉橋は真琴を促して休憩室のソファに座らせた。
「何を飲まれます?」
「熱いお茶を、あの、俺が」
「ここは年長者の私にご馳走させてください。・・・・・お茶ですけどね」
自動販売機で買ったペットボトルのお茶を差し出しながら、倉橋は小さく笑みを浮かべた。
(・・・・・まただ)
最近、真琴は倉橋の表情がよく分かるようになってきた。
それは付き合いが長くなってきたという物理的な要因もあるが、それ以外・・・・・倉橋の表情が豊かになってきたという事もある
だろう。
まるでビスクドールのように無表情に整った容貌だった倉橋が、最近ふとした時に表情が顕著に変化することに真琴は気付いて
いた。
それは自分や海藤といる時も無くはないが、一番は・・・・・。
「・・・・・綾辻さん、1人で淋しいでしょうね」
「え?」
「・・・・・」
(あ、また)
眼鏡の奥の綺麗な切れ長の目が、動揺したように数回瞬きをした。
(喧嘩でもしてるのかな・・・・・?)
「綾辻・・・・・ですか?」
「はい。あっちで1人だし」
「1人ということはないですよ?部下は何人もいるし、彼には友人も多いでしょうから」
「そうかな」
「そうです」
倉橋がそう言い切ると真琴もそれ以上言うことはない。
綾辻のことは置いておいて、真琴は先程見た海藤の母について言った。
「海藤さんのお母さんって若いですよね?伯父さんの、涼子さんもびっくりするほど若いなあって思いましたけど」
ただし、涼子は外見の若さとは関係なく、一本芯の通ったしっかりとした大人だという印象がある。
しかし、先程見た海藤の母親は、どこか浮世離れした・・・・・まだ少女のような雰囲気を持っていると感じたのだ。
「確かに、あの方は世俗とはかけ離れていますね。悪い方ではないと思いますが、今回のように社長を振り回されるのは感心
しません」
「倉橋さん」
自分の主の母親に対して言うにはかなり辛辣な物言いだ。
真琴は途惑ったように倉橋に聞き返した。
「倉橋さんは・・・・・あの・・・・・」
「はっきりおっしゃっても構いませんよ。真琴さんが想像されているように、私は社長の母上をあまり良くは思っていません」
「ど、どうしてですか?」
「そうですね・・・・・一言で言えば、あの人は社長の澱のような存在だからです」
「お・・・・・り?」
「ええ。生きているのに存在しない・・・・・それでも消えるわけでもなく、静かに心の中に積もっている存在。社長にとってあの人
は、消したくても消せない存在ですから」
「・・・・・」
(どういう意味なんだろう・・・・・)
真琴が海藤と過ごしてきた日々よりも、遥かに海藤の傍にいて彼を支えてきた倉橋。そんな倉橋が見る海藤の母親という存
在は、かなり『負』であるとしか聞こえない。
その意味は、今の真琴には分からなかった。
「倉橋さん」
「戻りましょうか?社長はきっとあなたを待たれていますよ」
「・・・・・はい」
それより少し前、病室を出て行く真琴の後ろ姿を見送っていた海藤は、
「あの子・・・・・誰?」
そう、不思議そうに呟く母親の声に視線を戻した。
「組の若い子って感じではないみたいだけど」
「彼は、俺の連れです」
「連れ?」
「籍はまだ入れてないが、俺の妻だと思ってください」
「妻って・・・・・だって、男の子でしょう?」
「あなたに何か問題がありますか?」
「・・・・・そうね、何もないわ」
目の前のこの母親にとって、父親以外のことはどれも重要な問題ではないということを、海藤は昔からよく知っていた。
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