昔日への思慕



23







 午後8時少し前、車の中からずらりと並んだ屋台の波に、真琴は思わずといったように叫んだ。
 「凄い!本当にテレビと同じ!」
真琴にとって、屋台というのは実家の家の前を時折通っていたラーメン屋だった。
父親がたまに家族皆の分を注文してくれ、家族で笑いながら食べていたという印象がとても強かった。
 今目の前にある光景はテレビの旅番組で時折見たものと同じで、実際にその場に自分がいることが信じられない。
 「本場ですよねっ?」
 「ええ。どう?」
 「こんなに数があるなんて、凄いです!それに、本当にラーメンだけじゃないんですね?ノレンに色々書いてあるみたい」
 「ラーメンは有名だけど、焼き鳥もおでんもあるわよ。マコちゃんが食べたいなら中華だってフレンチだってあるし、モツ鍋を出して
る所だってあるわ」
笑いながら言う綾辻に、真琴は一体何から食べようかという楽しい悩みに陥った。
 「ラーメンは食べてみたいんですけど、最初から食べちゃうとお腹いっぱいになりそうだし・・・・・あ、海藤さん、ラーメン半分こして
食べてくれますか?」
食べ残すということは考えない真琴が海藤を振り返って言うと、海藤は笑みを浮かべながら頷いてみせた。堅実な考え方がとて
も真琴らしい。
 「じゃあ、最初は何食べる?」
 「え〜と・・・・・焼き鳥!」
 「OK]
綾辻の先導で、4人は賑わう人々の波の中に入っていった。



 美味しいものは何時もよりも食欲を増強させるのか、真琴は焼き鳥の屋台の次に入ったおでん屋でも、次々と好物を注文し
た。
 「おじさん、ジャガイモ下さいっ」
 「はいよ!」
 「私はチクワお願い〜」
 「おうっ」
 綾辻の案内してくれる店は味に間違いない上に、店の雰囲気も温かくて居心地がいい。
真琴は目の前で湯気をたてているおでんを嬉しそうに見つめながらパクッと一口口に含むと、幸せそうにヘニャッと相好を崩した。
 「おいし〜!」
 「そうか」
 そんな真琴を見つめている海藤も、穏やかに笑っている。
今日はさすがにスーツではなく、落ち着いた色合いのセーターにコートという姿だが、持っているオーラは消しようも無く目立ってい
た。
しかし、それを指摘して奇異な眼で見るような人間はここにはいない。
屋台という空間は、どんな人間でも一体感を持てる空間のようだった。
 「かいどーさん、おいしー?」
 ふと、海藤は真琴の口調に違和感を感じた。
 「真琴?」
酒を飲ませたつもりは・・・・・と、カウンターの上に目を走らせた海藤は、箸休めとして置いてある漬物の器に目がいった。
 「ご主人、これは・・・・・」
 「自家製の粕漬けですが」
 「・・・・・」
 「おいひーですよ?」
 既に舌が回らない感じになった真琴は上機嫌だ。
少し、顔が赤いとは思っていたが、それは直ぐ傍で火を使っているせいかと思っていたのだが、少し目を離している間に真琴は好
奇心で摘んだのだろう。
(どうするか・・・・・)
せっかく楽しそうにしている真琴を、ここまでと言って連れ帰るのは可哀想かもしれない。酔っているとはいってもまだ気分が高揚
しているだけのようで、せめてずっと食べたいと言っていたラーメンぐらいは食べさせてやろうかと思った。
 「綾辻、そろそろ次の・・・・・?」
 「はい?」
 綾辻を見た海藤は、その光景に僅かに溜め息をついた。
にっこりと悪戯っぽい笑みを浮かべた綾辻の手にはワイングラスが(ワインは常連にしか出さないものだった)あり、その綾辻の隣に
は・・・・・目元を少し赤くした倉橋がいた。



 「・・・・・ちょっと、護衛役の私達が酒を飲んでどうするんですっ」
 席に着くなりワインを注文した綾辻が倉橋の分までグラスを差し出すと、倉橋は眉を顰めながらきっぱりと言い切った。
しかし、そんな倉橋の怒った顔も綺麗だと思う綾辻は、まあまあと口先だけで謝りながら言う。
 「護衛は周りにいるでしょう?マコちゃんが気にするから黙ってるけど」
 「仕事中ですよ」
 「屋台にいて酒を飲まないっておかしいでしょー?お付き合いお付き合い」
 「・・・・・」
 「じゃあ、飲みやすいものがいい?」
綾辻はまた別の注文をし、間もなく倉橋の目の前にはオレンジジュースが出された。
 「これならいい?」
確かに、あまり食事の量も多くないので悪いと思ったのか、倉橋は少しだけグラスを傾けた。
(・・・・・美味しい)
喉が渇いていたのか、一気に半分ほど飲み干した倉橋は・・・・・やがて身体が少しずつ温かくなってきたことに気付いた。
(なん・・・・・だ?)
 少し身体が揺れた倉橋の背中を抱きとめた綾辻の口元は笑んでいる。
 「ほんの少ししかジン入れてないんだけどな〜」
その呟きは、倉橋の耳には届かなかった。



 真琴と倉橋の様子を見て動かない方がいいと判断した海藤がそう言うと、あらかじめ予想していたのかどうか、綾辻はこの屋
台にラーメンを出前させた。
 「真琴、ほら」
 「おーいーしーそー!」
 ふーふーと冷ましながらラーメンを食べる真琴は本当に幸せそうで、生姜が美味しい、豚骨は本場だと、一々海藤に説明しな
がら食べている。
そして、思ったよりも食べやすかったのか、真琴は一杯をペロリと完食した。
 「あー、かいどーさんのぶんもたべちゃったー」
 「俺はいい」
 「でもー、ほんとーにおいしかったんだよ?あじ、おしえたいなー」
 「お前の顔を見れば分かる」
 「・・・・・あー、そうだ」
 不意に、真琴は海藤の胸元を引き寄せ、そのまま勢いよく海藤の唇に唇を重ねた。
舌を絡める濃厚なキスをする真琴を、最初は驚いた海藤も突き放すことなく抱きしめて宥めるように背を撫で、それに気持ちよ
くなった真琴はうっとりと目を閉じた。
 ここが人前だということは全然意識していないのだろう。
屋台の店主も口が堅い人間だし、4人以外の客は綾辻が用意した護衛兼サクラなので、真琴のこの行為を諌める者は1人も
いなかった。
 「・・・・・んぁ」
 やがて、唇を離した真琴は、今までの濃厚な気配を全く感じさせず、子供のようににっこり笑って海藤に言った。
 「ね?おいしかった?らーめん」
舌を絡めるキスはラーメンの味を伝える為だったらしいと分かった海藤は、プッと噴き出して目の前の真琴を抱きしめた。
 「ああ、うまかった・・・・・ご馳走さん」