昔日への思慕
4
病室に戻ってきた真琴は、可哀想なほど緊張していた。
倉橋に促され海藤の隣に立つと、真琴は音がするほど激しく頭を下げて言った。
「は、初めまして、西原真琴といいますっ」
「・・・・・こんにちは、海藤貴之の妻の淑恵(としえ)です」
「・・・・・え・・・・・と」
真琴は途惑ったように海藤を見上げた。
真琴の気持ちは分かる。こうして自分が連れてきた相手に、初対面の挨拶としては先ずは『貴士の母の』というのが本当だろう。
海藤はそんな母親に慣れてはいるが、真琴にとっては多少なりともショックだったのかもしれない。
「今日はこれで帰ります」
「か、海藤さんっ」
「命に別状はないことは分かってるんだ。このままここにいても邪魔になるだけだろう」
海藤はそう真琴に言い聞かせると、淑恵を振り返った。
「近くにホテルを取ってます。2、3日はいると思いますので」
「じゃあ、貴之さんには会うの?」
「・・・・・時間があれば」
「分かったわ」
引き止めることも、ホテルの名前を聞くこともしない。
これが本当に自分という子供を生んだ母親なのかと思うが、そんな感情も今更だった。
「じゃあ」
驚くほど呆気なく病室を出る海藤に、真琴はどうしても後ろが気になって振り向きながら言った。
「海藤さん、お母さんに付いてなくていいんですか?1人じゃやっぱり不安だろうし・・・・・」
「ここは完全看護だろ」
「そうじゃなくって!」
「俺がいない方があの人にとってはいいんだ。2人きりになれるだろう」
「・・・・・」
全く何の感情も無く、ごく当たり前にそう言う海藤を見て、真琴は思わずその腕に縋るように抱きついた。
「真琴?」
冷たい・・・・・真琴はそう思った。体温とかではなく、海藤の纏う空気が、とても冷たく哀しいと感じる。本人がそうとは思っていな
いだけに、それはもしかしてとても根の深いものなのかもしれなかった。
言葉で何か言うと全部が安っぽく感じるので、真琴はただ自分の体温を分け与えるようにして抱きつくしか出来ない。
海藤は分かっているのか、僅かに唇の端を持ち上げて笑った。
「少し離れていますが」
そう言って倉橋が案内したのは、博多のシーホークホテル福岡だった。
値段などはとても分からないが、一見しただけで高級なホテルだということは直ぐに分かった。
突然の客を丁寧に迎えたのは、もう帰宅しているはずの支配人だ。
「お疲れでしょう。ちょうど和室が空いておりましたので」
案内されたのは、高級旅館にも負けない立派な和室で、既に2人分の床も敷いてあった。ここに来る前に、多分、真琴が一緒
に来ると分かってから直ぐ、倉橋が手配してくれていたのだろう。
「こ、こんな広い所に、2人だけですか?」
「私共にも別に部屋は取りましたから。真琴さんは風呂に入ってお休み下さい。今日は突然の事だったのでお疲れでしょう」
「海藤さんは?」
「俺は倉橋と少し話がある。先に寝ていろ」
「でも・・・・・」
「明日も一緒に病院に行ってくれるんだろう?」
「は、はい」
「お休み」
「・・・・・おやすみなさい」
それ以上引き止めることは出来ず、真琴は部屋から出て行く2人の背中を見送った。
部屋の前に数人の見張りを残し、海藤達が入ったのは直ぐ隣の部屋だ。わざわざ部屋を2つ取ったのは、真琴に生々しいヤク
ザ社会の話を聞かせない為だった。
「やったのは」
部屋に入るなり、海藤は直ぐに切り出した。
「申し訳ありません。バックにどこが付いているのか、今だ探っている状態です」
「警察は?」
「狙撃されたのがちょうど御前所有の宿だったらしく、全て口止めは済んでいます。ただ・・・・・」
「何だ?」
「宇佐見さんには連絡が行ったそうです。彼もどうやら誰かを付けていたらしくて・・・・・」
思い掛けなく出た異母弟の名前に、海藤は皮肉そうな笑みを浮かべる。
「自分を捨てた男でも、父親というのは特別なものなのか」
「社長・・・・・」
海藤は座ることもせず、じっと腕を組んで目を閉じていた。
確かに今海藤は大東組系列の中でも突出した存在であることは間違いない。まだ30代前半の若さでありながら組に納める上
納金もトップだし、その勢いは留まることを知らないほどだ。
海藤自身はそんな自分の地位に溺れるような男ではなく、他の組長達にも礼を尽くしているが、面白く思っていない人間は両手
に余るほどはいるだろう。
しかし、主に関東に勢力がある海藤を敵視する人物が、わざわざ九州まで来て、それも既に引退している疎遠な父親をわざわ
ざ狙うだろうか?
個人的に恨みを買っているということも考えられなくはないが、そこまでするならなぜ絶命させるまでにいかなかったのか。
まるで何時でも殺すことは出来るという脅しにしか思えない今回の出来事に、海藤はかえって緊張感を高めた。
「伯父貴は?」
「御前も今のところは心当たりはないと」
「・・・・・」
「綾辻の方もまだ連絡は上がってきていません」
それから海藤が部屋に戻ったのは1時間ほども経った頃だ。
「・・・・・真琴?」
備え付けの浴衣には着替えてはいたが、真琴は床には入らず、大きな木のテーブルにうつ伏せた格好のまま眠っていた。
どうやら自分が帰ってくるのを待っている間に眠ったのだと察した海藤は、今まで緊張していた身体からゆっくりと力が抜けるような
感覚がした。
(連れて来て・・・・・良かったか・・・・・)
敵対する相手が分からないという不安定な地に、真琴を連れてくるのには躊躇いが無かったわけではなかった。
それでも最終的に一緒に来たのは・・・・・。
「真琴・・・・・」
そっと身体を持ち上げても、真琴は疲れているのだろうかいっこうに目を覚まそうとはしない。
海藤はそのままその身体を布団に寝かせると、自分は上着とネクタイを取っただけの姿でその横に身体を横たえた。
規則正しく上下している胸。
小さな吐息。
確かに生きて存在している・・・・・海藤はその温もりを腕に抱いて目を閉じた。
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