千三つ せんみつ











 こちらが体勢を整える前に、ジュウは更なる行動をしてきた。
なんと、真琴本人を攫ったのだ。
 「何っ?」
 いきなり鳴った海藤の携帯電話。その液晶を見た海藤は直ぐに電話に出て、彼にしては珍しく焦ったような声を上げた。
側にいた倉橋はその海藤の気配に嫌なものを感じ、パソコンを操っていた手を止めてその様子を窺う。
(何があった?)
口調から考えれば、組織の上の者からという感じではない。そもそも、海藤の携帯番号は不特定多数の人間が知っているとい
うわけではなく、ごく限られた近しい者の方が多いはずだ。
 そこまで考えて、倉橋はとっさにこれが真琴のことに関係があるのではないかと気付いた。普段、どんな難問にでも冷静沈着に
対応する海藤が、唯一顔色を変えるのは・・・・・。
(真琴さんのことだけだ)
 「いや、気にしないでくれ。それよりどこに行ったのか分からないか?」
 「・・・・・」
(・・・・・やっぱり)
 多分、真琴の姿が無いという話だ。だとすれば、この電話の相手は真琴のバイト先の人間だろうか。
 「分かった、すまない」
倉橋の考えがまとまらない間に電話を切った海藤がこちらを見た。
 「倉橋、真琴のバイト先の周辺に中華料理店があるか?」
 ビンゴ・・・・・ジュウが動いたのだ。
倉橋は前もって資料として取り込んでいた真琴のバイト先のデーターを呼び出した。共に働いている者達の身辺調査だけではな
く、店自体、そしてその周辺も全て調べは付いている。
本当は真琴を手の中に入れて守りたいはずの海藤が、真琴の希望と自分の思いを擦り合わせる為に、出来うる限りの手を打っ
ていた・・・・・その効果が、皮肉にもここで役立ったようだ。
 「こちらだと思います」
 目当ての店を確認した海藤は直ぐにコートを手にとって部屋を出る。
もちろん倉橋もそれに続いたが、エレベーターホールの前で、ちょうどエレベーターから出てきた綾辻と鉢合わせしてしまった。
 「何?」
 海藤の固い表情と、倉橋の顔色の悪さに、直ぐに何かあったのだと気付いたらしい綾辻が聞いてきた。
 「真琴さんが連れ去られたようです」
 「マコちゃんが?」
綾辻は一瞬海藤を見て、再び倉橋へと視線を戻した。
 「場所は」
 「可能性の高い所へ行きます」
 「私も行くわ」
 「綾辻さん、あなたはまだ帰国したばかりで・・・・・っ」
 「まだまだ若いわよ」



 綾辻の同行に海藤は何も言わず、3人はそのまま真琴のバイト先からそう遠くない中華料理店までやってきた。
本当は、自分が海藤と共に店の中に入るつもりだったが、海藤が共に連れて行くと決めたのは綾辻の方だった。
 「ここで待機してくれ。30分経っても何も連絡が無い場合は、御前にその連絡をして指示を待つように。一連の経緯は夕べメ
ールで伝えてある」
 「・・・・・分かりました」
 自分が行きますと言いたかった。
海藤を、そして真琴を、自分の手で守りたいと思っていた。
しかし、どう贔屓目に見ても、自分よりも綾辻の方が腕は立つ。とっさの判断も、全てを段取り通りにする自分とは違い、頭が柔
らかい綾辻はどんな状況の変化にも対応出来る。
自分では・・・・・駄目なのだ。
 「行ってくる」
 「待っててね、克己」
 2人共、そんな卑屈な自分の思いを感じているだろうが、軽い口調でそう言って店の中に入って行った。
背の高い、しなやかな背中が視界から消えていく。
(無事で・・・・・)
今はもう、そう願うことしか出来なかった。



 結果的に、綾辻が同行したのは間違いではなかった。
約束の時間に真琴を連れて出てきた2人。その綾辻は耳たぶを銃で掠っていた。
 「・・・・・」
 海藤の友人である一之瀬(いちのせ)の病院にそのまま直行し、綾辻が治療を受けている姿を部屋の隅からじっと見つめる倉
橋の心に湧き上がったのは恐怖だ。
近しい者を失うという甘いものではない、まるで自分の半身を失ってしまうような喪失感。銃や刃物で怪我をした人間を見ること
など何度もあったのに、自分自身がその凶器に晒されても怖いなどとは思わないのに、綾辻のこんな掠り傷を見ただけで、赤い
血が流れているという光景が頭の中に蘇っただけで、倉橋はその場に崩れ落ちてしまいそうなほどの恐怖を感じた。

 コノオトコガイナクナッタラドウナル?

 人間は1人でも生きていけるはずだ。
そう思っていたのに、失うことを恐れるというのは矛盾した思いだ。

 ジブンダケガトリノコサレタラドウスル?

 倉橋も、綾辻が自分にとって特別な存在だということは自覚しているつもりだった。それなのに、いざその命が消えることを想像し
て、こんなにも自分が動揺してしまうとは思わなかった。
 「・・・・・」
 何時もは歳に似合わずと文句を言っていた綾辻のピアスは今は外されていて、本人も気になるのかたった今治療したばかりのそ
こに手を伸ばそうとしている。
倉橋は反射的に歩み寄ると、その指を掴んで止めた。
 「大丈夫よ」
 「・・・・・心配など、していません」
 「冷たいわね」
 まるで自分を宥めるように言う綾辻の言葉が辛い。
痛い思いをしているのは綾辻の方なのに、こんな時にでも綾辻に気を使わせている自分が悔しい。
 「ねえ、舐めて治してよ、克己。痛いの痛いの飛んでいけして」
 「本当に・・・・・馬鹿ですね、あなたは」
それは、本当は自分に向かって言いたいくらいの言葉だった。



 綾辻の怪我で動揺してしまった倉橋は、何とか自分の感情を鎮めたい為に、このまま海藤達の運転手をすることを希望した。
海藤は怪我をした綾辻を気遣ってか、男を送っていくようにと言ったが、倉橋としてはせめて海藤達が安全であるマンションに入っ
ていくまで自分の目で見届けたかったのだ。
それと同時に、綾辻と2人きりになることが怖いという思いも確かにあったのだが・・・・・。
 「いいですね、綾辻」
 「はいはい、克己の言う通りにしま〜す。私も行きますから」
 「・・・・・っ、いい!」
 「ん?」
 「・・・・・あなたは、怪我をしているんですから・・・・・そのまま真っ直ぐに帰った方がいいです」
 「だから、克己に送ってもらうんじゃない。社長とマコちゃんを送ったついでで構わないから、ね?」
 「・・・・・」
 まるで、そんな自分の気持ちを見透かしたような綾辻の言葉。不安定に揺れる心のままではいさせないというような、柔らかな
言葉の裏の強引な行動。
 「ほら、早く社長とマコちゃんを送らないと」
 「あ、はい」
(どうしよう・・・・・)
 自分よりも遥かに口の達者な綾辻に、言いくるめるということはとても出来ないだろう。
(この間は、何もしないで・・・・・眠ってしまった、し)

 香港から帰国したばかりで疲れていたはずの綾辻に、何もかも世話をさせてしまったあの日。
朝目覚めた時、自分の視界が肌色なことに一瞬戸惑ってしまった倉橋は、それが綾辻の裸身だと分かるのに少し時間が掛かっ
てしまった。
 「うわ・・・・・っ」
 「何、その反応」
思い掛けなく大きな声を出してしまった倉橋を笑いながら見つめた綾辻。起き上がった彼が下着(それもなぜかセクシーなビキニ
タイプ)しか着けていないのを見た倉橋は、ただ視線を逸らして寝室から逃げることしか出来なかった。

 「・・・・・」
(セックス、しなければいけないのか・・・・・?)
 今更、嫌だという気持ちは無い。
確かに、まだ男に抱かれるということ・・・・・いや、誰かにこの身体を愛されるということに慣れてはいないが、綾辻に抱かれることは
それとは別に怖い。
身体だけではなく、心までも委ねてしまうのが怖いのだ。
 「運転、代わりましょうか?」
 「・・・・・いえ、大丈夫です」
 倉橋が動揺していることに気付いているらしい綾辻は笑いながら自分を見ている。
人の感情に敏い彼に何を言っても誤魔化すことは出来ないだろうと半ば諦めた倉橋は、気持ちを入れ替えるように深呼吸をして
から車を走らせた。
 「綾辻さん、本当に大丈夫ですか?」
 「マコちゃんも心配性なんだから〜。こんなの、ピアスの穴を開ける時の痛みよりも全然小さいわよ」
 「・・・・・」
 「今日はゆっくり寝たらいいわ。あ〜、それよりも、思いっきり社長に甘えたら?Crisis の後のセックスは燃えるわよ」
 「綾辻さんっ」
 何を言うのかと倉橋は止めたが、そのものずばりな綾辻の言葉に真琴の頬に赤みが差したのが確かに見えた。
言葉自体はデリカシーの無いものに聞こえたが、これも綾辻なりのケアの方法なのかもしれないと少し後になって気が付く。とっさ
に怒ることしか出来なかった自分がとても小さな男に思えた。
 「・・・・・」
 「深く考えることは無いわよ、克己」
 黙りこんでしまった倉橋に、綾辻は事も無げに笑い掛けてくる。
 「All goes well ・・・・・ね?」
万事上手くいく・・・・・本当にそうなのだろうか?