千三つ せんみつ











 海藤と真琴をマンションまで送った倉橋は、そのまま綾辻のマンションまで車を運転した。
途中代わろうと言ったのだが、怪我人は大人しくしているようにと怒ったような口調で言われ、それ以上強くも出れなくて運転を任
せたままだった。
(こんなの、傷のうちには入らないんだがな)
 こんな掠り傷は、綾辻にしたら怪我というものではない。最近は自分が出るほどの問題が起こることもないのだが、昔はいきがっ
て売られる喧嘩は全て買ったし、抗争となれば先頭にたって乗り込んでいった。
それ程無茶をしていたのに身体に大きな傷がないのは、それだけ綾辻の腕がたつということなのだが・・・・・昔は自慢していたそん
なことも、今では馬鹿だったと思うことが多い。人の価値はそんなものでは計れないことが分かったからだ。
 「ありがと」
 マンションの地下駐車場に車が停まり、綾辻は倉橋にそう言った。
 「どうする?」
 「綾辻さん、私は・・・・・」
 「この後、私、シャワーを浴びるのよ」
 「・・・・・え?」
何を言うのかと戸惑ったような表情になった倉橋に、綾辻はにっこりと笑い掛ける。
 「耳だから、自分で消毒し難いと思わない?」
 「・・・・・」
 「克己が手伝ってくれると助かるんだけど」
何時も考え過ぎている倉橋。その生真面目さも愛しいが、それは同時に一歩踏み出す時の足枷にもなるものだ。
だからこそ、綾辻は倉橋に逃げ道を作ってやる。正当な言い訳さえあれば、身体の関係のある男の部屋に足を踏み入れることは
おかしくないと・・・・・。
 「ね?克己」
 甘えるように、誘うように。綾辻はまだハンドルに置いてある倉橋の手に自分のそれを重ねた。
 「お願い」
 「・・・・・」
断るという選択は倉橋にはなくなるだろう。



 誘った言葉が嘘ではないと、綾辻はマンションに戻ると直ぐにシャワーを浴びた。
髪に付いていた気がする硝煙の匂いも消えた気がしてさっぱりとした気分でリビングに向かうと、そこにはソファで待っているはずの
倉橋の姿が無かった。
(克己?)
 自分がシャワーを浴びている間に帰ったということは考えられなかった。一度決めたことを土壇場で覆すような男ではない。
そして、直ぐに綾辻はその居場所に気付くことが出来た。
 「克己」
 リビングに続くキッチンから感じる人の気配と、何かを焼く・・・・・。
(・・・・・焦げ臭い)
 「な〜にしてるの?」
 「あ」
出来るだけ気配を消して近付いてから声を掛けると、細い背中はビクッと震えて振り返った。
 「何か、食べるかと思って・・・・・すみません、勝手に冷蔵庫を開けてしまいました」
 「それはいいけど、食べるものなんてあった?」
 「私の家よりははるかに」
 そう言った倉橋はなぜか頬を緩めている。その理由が思いつかなくて首を傾げた綾辻に、倉橋は更に笑みを深くした。
 「今度、こちらにお邪魔する時は、美味しいプリンを持参しますね」
 「あ〜・・・・・」
(それか)
ほとんど100パーセント外食の倉橋とは違い、綾辻は料理を作る。海藤ほど本格的なものではないが、手先が器用なのでかな
り食べられるものが作れる。
 外出が多いので、冷蔵庫の中にはあまり生物は置いておらず、飲み物や乾物が多いのだが・・・・・その中に異彩を放つように
置かれているのがプリンだった。それも、高いものではなく、スーパーでよく売っているような3パック幾らの安いものだ。
(この間久し振りに食べて美味かったからな)
 先日、事務所で組員が食べていたプリン。からかった綾辻に、美味いんですよと1つ分けてくれた。甘い物は嫌いではない綾辻
は久し振りにそれを食べたのだが、子供の頃に美味しいと感じたあの甘ったるさが懐かしくなったのだ。
それで、わざわざコンビニで買ったのだが、倉橋はあれを見てからかう材料が出来たと思ったのだろう。
 「や〜ね、マコちゃんには言わないでよ?」
 「あなたらしいと言ってくれるんじゃないですか?」
 「それでも、私も一応オトコノコだから・・・・・あっ、克己、焦げ臭いわよ?」
 「え?あ!」
 倉橋がフライパンで焼いていたのは目玉焼きだった。
黄身は潰れ、白身の端の方に殻の欠片も見えた気がしたが、料理の全く出来ない倉橋が冷蔵庫の中身を見て考え、作ろうと
思い付いただけでも凄く嬉しい。
 「あっ、熱っ」
 慌てた倉橋がフライ返しをパッと手にすると、フライパンに置きっぱなしだったそれはかなり熱くなっていたらしく、あまりの熱さにパッ
と手を離してしまった。
綾辻はとっさにその手を握ると、そのまま水を出して冷やしてやる。冷たい水は倉橋の手だけではなく、綾辻の手さえも凍えるよう
に冷たくしていった。
 「綾辻さん、あなたの手がっ」
 「痕が残らないといいが・・・・・」
 「大丈夫ですよっ」
 自分の怪我などとは比べ物にならないほど、たったこれくらいの出来事が痛い。
いくら自分の為でも倉橋が怪我をするのは嫌だった。
 「綾辻さん・・・・・」
それからしばらくの間、綾辻はずっと倉橋の手を冷やし続けた。



 「もう・・・・・髪を乾かさないままで、風邪をひいたらどうするんですか」
 あなただって人間なんですよ・・・・・そう口で文句を言いながらも、倉橋は綾辻の髪をドライヤーで乾かしてくれる。
結局、火傷はたいしたことはなく、後には黄身が硬く、白身の裏が真っ黒になった目玉焼きが残った。
倉橋は複雑そうな目でそれを見下ろしていたが、ふと綾辻に視線を向けて、ようやく綾辻が風呂上りで髪も乾かしていないことに
気付いたらしい。
 何を考えているんですかと怒鳴った後に、タオルドライをしてくれ、その後にドライヤーを持ってきて乾かしてくれているのだ。
 「あなたは何でも1人で出来る人なのに」
 「・・・・・」
 「こういう時に子供っぽさを見せてどうするんですか」
 「・・・・・」
 「・・・・・私が・・・・・困るでしょう」
ドライヤーの音で聞こえないとでも思っているのだろう、本当に小さな声でそう呟く倉橋に、綾辻は心の中で呟いた。
(お前の前でだけは、素になるんだよ)



 髪が乾いた後は、耳の傷の消毒だ。
放っておいても構わないと思うのだが、一之瀬が同封していた消毒のやり方を書いたメモを真剣な表情で読んでいる倉橋がツボ
に嵌るくらい可愛いので、彼がいいように全部任せることにした。
 「少し沁みるようですが」
 「あ、ダイジョーブ。私、痛みに強いから」
 「・・・・・」
 「克己?」
 「・・・・・そんな言い方、しないで下さい」
 「・・・・・ごめんなさい」
 まるで、綾辻の痛みを自分の痛みのように感じて眉を顰める倉橋に、綾辻は素直に謝罪の言葉を口にした。
ヤクザ、それも、幹部という地位なのに、こんな痛みを気にするのは愚かなことなのだが、その愚かさが今の倉橋の地位を築いたと
いってもいい。
動の自分と、静の倉橋。自分達が対になっているからこそ、開成会の規律は守られているという自負がある。もちろん、会長であ
る海藤のカリスマ性は当然のようにあるだろうが。
 「我慢してくださいね」
 綾辻が1人思考の海に沈んでいた時、倉橋の声が柔らかく耳に届いた。
 「・・・・・」
 「痛いですか?」
 「大丈夫」
痛みよりも、消毒液の冷たさの方が気になるくらいで、綾辻は心配ないと笑ってみせる。それに安心したのか、倉橋の気配は途
端に柔らかくなり、そのまま消毒を続けた。
 細く、冷たい指先が自分の耳に触れている・・・・・本当はこのまま押し倒したいくらいだが、多分、今日は倉橋も拒むことはな
いだろうが、綾辻は同情で抱かせてもらいたくなかった。こちらが求めるのと同じように倉橋が求めてくれなければ、身体は気持ち
よくなっても心が乾いたままだ。
それよりは、今日はこのまま倉橋の優しさに浸っていた方がいい。
 「・・・・・はい」
 「ありがと」
 消毒が終わってその場を片付けた倉橋は、ちらっと綾辻を見て・・・・・再び視線を逸らして言った。
 「そろそろ帰ります」
 「もう遅いわよ?」
 「車ですから」
 「・・・・・そっか。残念ね、また添い寝をして貰いたかったんだけど」
綾辻は冗談のつもりで言ったのだが、倉橋は先日の自分の失態を思い出したのか気まずい表情になる。
それでも、今日泊まるとは言い出さないところが倉橋らしかった。
 「明日は、克己が作ってくれた目玉焼きを食べて出勤ね」
 「あれは捨ててくださいっ。焦げた物を食べると癌になります」
 「あ、克己はそんなの信じるタイプなんだ?」
 「・・・・・医学的なことは分かりませんが、良くないというものをあえてすることは無いでしょう?あなたは・・・・・大切な身体なん
ですから」
 「・・・・・分かった」
 「では、今日はもう休んでくださいね?おやすみなさい」
 「はいはい」
 駐車場まで見送ると言ったら、女ではないし、風呂上りの身では風邪をひいてしまうからと言下に却下されて、見送りは玄関
で済ませた。
丁寧に頭を下げた倉橋がドアを開けて出て行くと、綾辻は少し時間を置いてからドアを開ける。
 「・・・・・」
ちょうど、倉橋の乗り込んだエレベーターが閉まる瞬間で、こちらを見ていたらしい倉橋の目が驚いたように見開かれたのが分かっ
て・・・・・綾辻は笑いながら軽く手を振った。
 「おやすみ、克己」
その声は、多分倉橋には届かなかっただろう。