千三つ せんみつ
5
ヒタヒタと、耳に聞こえない足音をさせながらジュウが近付いてきている気がする。
誰かを怖いと思ったことはない倉橋だが、本意が全く分からないジュウには不気味なものを感じていた。彼のような人間が純粋な
気持ちで真琴を想っているとはとても思えないが、かといって裏があるとすればそれが何かが想像出来ない。
(もしかしたら本当に・・・・・真琴さんを手に入れようと・・・・・?)
そんな時、海藤へ大東組の理事である江坂凌二(えさか りょうじ)から電話があった。
まだ30代ながら大組織の中枢を担っている江坂が用件無く自分から連絡を取ってくることは無く、倉橋は電話をする海藤の横
顔をじっと見つめる。
「噂よりも、かなり若いです。日本語も堪能で、会話には全く困りません」
「・・・・・」
(ジュウのことか)
その言葉に確信した。どうやら、江坂の用件はジュウのことのようだ。
まさか彼が真琴を狙って動いているなどとは知らないはずだし、それをジュウがわざわざ江坂に言うとも思えない。
(そうだとしたら何の為に・・・・・)
電話はそれ程長くなかった。
「社長」
「ウォンが連絡をしてきたらしい」
やはりと思った倉橋は、頭の中に浮かんだ疑問を口にした。
「・・・・・牽制ですか?」
「いや、俺によろしくと・・・・・なかなか仕事が早い」
「・・・・・本部に手助けをさせない為でしょうか」
「俺なんかにそこまでしてもらうとは・・・・・ありがたいと思えばいいのか・・・・・」
香港伍合会と大東組が手を結ぼうとしているという事実が、海藤の決断を鈍らせてはならないと思う。
確かに、本部の命令は絶対であるし、規模からしても香港伍合会は開成会よりも遥かに大きい。まともに喧嘩を売ろうにも、確
実にこちらの方が身内から非難を受けてしまうだろうということは想像が出来た。
(あちらが取引材料に真琴さんを要求したとしたら・・・・・上は躊躇い無く差し出せと言うだろうな)
「倉橋」
不意に、名前を呼ばれ、倉橋は海藤を見た。
「はい」
「・・・・・俺が間違っていたら、遠慮なく張り倒してくれ。今の俺にそんなことをしてくれる人間はあまりいないんだ」
「・・・・・」
「頼みますよ、倉橋先輩」
そう言った海藤の表情は、倉橋が危惧しているような追い詰められたものではなった。それでも、長い付き合いで、彼が何かを強
く心に決めたのだということは分かる。
「倉橋先輩」
懐かしいその呼び方をしてくれたのは、海藤にとって自分はただの部下ではないと思ってくれているのだろうか。
学生時代はほとんど接触もなく、ごくたまに言葉を交わすくらいの関係だった後輩。ただ、交わす視線や言葉には他のどんな知り
合いよりも意味があるような気がして、なぜか卒業してもずっと気になっていた。
「先輩、俺のところに来たら、生きてる実感が湧きますよ」
街で偶然再会し、この世界に誘われた時、今の自分の職業とは全く裏腹な世界だというのに、不思議と倉橋は迷うことなく頷
いていた。
「お前とここで出会ったことも、私にとっては運命だったんだろう」
その時、そう答えた自分を、倉橋は今でも褒めてやりたい。
海藤と出会ったから、倉橋は生きる理由を見つけたし。
真琴と出会って、誰かを慈しむという感情を持つことが出来き。
そして・・・・・綾辻と出会って、自分にも独占欲があるということに気付いた。
「・・・・・っ、分かった、海藤」
海藤が何をどう考えているのか分からないが、倉橋は彼がどんな決断をしようともそれに従い、全力で手助けをしようと誓った。
今自分がここにこうして生きているのは、他の誰でもない、目の前の優秀な後輩のおかげだからだ。
「お帰りなさい」
海藤をマンションまで送った倉橋は、そのまま部屋まで上がっていく。
今日は怪我の静養という名目で綾辻が真琴にずっと付いていたので、彼をマンションまで送っていかなければならないからだ。
玄関先でそう言って海藤を出迎えた真琴は、倉橋にもすみませんと頭を下げた。真琴が謝ることなど全く無いのだが、優しい性
格のせいか、今回のことを全部自分のせいだと思いつめているようだ。
(真琴さんには全く落ち度が無いのに・・・・・)
「倉橋」
「はい」
「悪いが」
「はい。お役に立てるとは思えませんが」
自分が留守の間の真琴の様子を聞く為だろう、綾辻を伴って別の部屋へと向かう海藤をちらっと見た後、倉橋は所在無げな
風情で立っている真琴に言った。
「食事をご馳走して下さるということで、私がお手伝い出来ることはありますか?」
「手伝うって言っても、ほとんど綾辻さんがしてくれたんですよ。今日は男4人だし、カニ鍋にしました」
「それは美味しそうですね」
「綾辻さんが舎弟さんに市場までお使いに行かせて、一々写メールで蟹を撮らせて選んだんですよ」
「・・・・・それは」
(いったい、あの人はどんな用件で部下を使っているんだ)
出来るだけマンションから出ない方がいいと思ってのことだろうが、組員を市場まで使いに行かせるのは褒められることではない。
幾ら下っ端でも彼らには別に仕事があるはずだし、綾辻のことだ、きっと使えない組員ではなく、久保のような幹部補佐を使った
だろうということは予想が付く。
(全く、勿体無い・・・・・)
「・・・・・」
「で、出来ますか?」
「・・・・・どうでしょうか」
倉橋は背広の上着を脱ぎ、シャツの袖を巻くって真琴の貸してくれたエプロンを付けると、自分に出来ることがあるだろうかと思
いながらキッチンに向かった。
鍋ということで自分がすることはほとんどないと思ったのだが・・・・・。
「・・・・・っ、う、動いた!」
「・・・・・動き、ました、ね」
まな板の上に乗っている大きなタラバガニはまだ生きていて、足が動いたと真琴は倉橋の腕にしがみ付いてきた。
倉橋は動くことは無かったが・・・・・それはけして落ち着いているというわけではなく、情けないが足が動かなかったのだ。
「く、倉橋さんっ、い、今、足がもにょって!」
「もにょって・・・・・しました」
(・・・・・どうして捌いてもらったものを買ってこさせなかったのか?)
既に鍋の中の野菜や豆腐は程よく煮えていて、後はこの蟹を入れるだけなのだが・・・・・自分も、そして真琴も、生きている蟹
に触れることも出来なかった。
自分に向かってくることはないと分かっているのに・・・・・怖いのだ。
「・・・・・」
「・・・・・」
「綾辻さん、呼びます?」
「・・・・・やってみましょう」
こんなことでわざわざ綾辻を呼ぶのも申し訳なくて、倉橋はやっとの思いで蟹に触れた。
モニ・・・・・
「・・・・・!」
その瞬間、再び蟹の足は動いて、倉橋はばっと手を引いた。
その拍子に肘が野菜が入っていたボールにあたってしまい、賑やかな音をさせながらボールは床に落ちてしまう。
「どうしたの?」
それから直ぐに綾辻と海藤が現れて・・・・・倉橋は結局呆然とそこに立っている姿を見られてしまった。
「ふふふっ」
「・・・・・いい加減、止めてもらえないですか、その笑い」
食事をご馳走になり、そのまま綾辻を車で送っていた倉橋は、助手席でずっと笑い続けている男を横目で睨んだ。
確かに思い掛けない醜態を晒してしまったことは自覚しているし、笑われても仕方が無いとは思うが、それをこんなにも引きづられ
るのは正直面白くない。
「いい加減にしないとここで下ろしますよ」
「あー、ごめんなさい、もう止めるから」
まだ頬に笑みを残しながらも何とか笑いを収めたらしい綾辻は、軽い口調でねえと話し掛けてきた。
「何ですか」
「社長、どうやら決めたみたいよ」
「え?」
「ジュウと渡り合うこと」
「・・・・・」
ちょうど赤信号で車は止まり、倉橋は綾辻を見た。
(・・・・・本気か)
口許に浮かんだ笑みとは対照的に、綾辻の目は少しも笑っていない。その表情で今言ったことがどうやら真実だと分かった倉橋
は、自然と自分も緊張したように鼓動を早めた。
「まあ、客観的に見ても向こうに分があるだろうけど」
「そんなこと・・・・・」
「そう。社長はそんなことを気にするような男じゃないわ。自分が敵わないからといって諦める人じゃない」
「ええ」
「私達も精一杯サポートしましょう」
「・・・・・ええ」
倉橋は力強く頷く。
綾辻と比べて自分が出来ることは限られているだろうが、それでも綾辻と共に、海藤と真琴の為に何かしたいと強く思った。
(真琴さんは絶対に渡さない・・・・・)
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