千三つ せんみつ











 車が空港に停まった瞬間に行動に移そう・・・・・綾辻は振動に合わせて身体を揺らしながら、靴底に仕込んだ剃刀を手の内
に隠す。
とにかく、真琴の安全が第一だ。絶対に怪我をさせないように細心の注意を払って動こう・・・・・そう思っていた時、いきなり車が
急停止し、運転手の男と、シャオと呼ばれていた男が焦ったように中国語で話し始めた。
(・・・・・道を塞がれた?)
 どうやら、新手の登場らしい。
それが自分達にとって敵か味方か分からないまま、綾辻は急停止した衝撃で後部座席の床に滑り落ちてしまった真琴の身体の
上に覆いかぶさった。
 「あ、綾辻さん?」
 「じっとしていて」
 何が、どうなったのか、綾辻は神経を集中させる。
そして・・・・・。

 『申し訳ないが、私の客人が用があるそうだ。今から東京に同行していただきたい』

そう、中国語で話す男の声を聞いた瞬間、綾辻の唇から深い安堵の溜め息が漏れた。
(何よ、理事・・・・・らしくもなく、正義のヒーローみたいじゃない)



 なぜ、江坂がここにいるのか、さすがに綾辻もとっさに想像が出来なかったが、少し落ち着けばそのからくりが見えたような気がし
た。海藤は、とにかくどんな手段を使っても、真琴を国外に連れ出されないようにしたかったのだろう。それには、開成会という名前
よりも、大東組理事の名前の方が影響力は大きい。
(それでも、この人が動いてくれるなんてね)
 利益にならないことには指一本動かさないように見える江坂が、幾ら香港伍合会が関わっているとしても、全く素人の真琴を助
けることによく動いたなと感心してしまう。
 「助かりました〜、理事。もう、大好き」
 一応礼を言っておいた方がいいだろうと、綾辻はまだ緊張と恐怖が解れていないような真琴を笑わせる為にわざとふざけた口調
で言うと、江坂は眼鏡の奥からチラリと鋭い眼差しを向けてきた。
 「きちんと話せるだろう。私の前でその言葉遣いは止めろ」
 「は〜い、気をつけます〜」
 バックミラー越しにそう答えた綾辻に、後部座席に江坂と並んで座っていた真琴も礼を言わなければと思ったのか、慌てて頭を
下げながら言った。
 「あ、あの、江坂さん、本当にありがとうございました」
 「・・・・・たまたま通り掛っただけだ」
(凄い偶然ね〜、理事。車の中に私達が乗ってるのが見えたなんて、透視も出来ちゃうのかしら)
 真琴の感謝の言葉にもそっけなく答える江坂に思わず突っ込みを入れてしまうが、それでも江坂が真琴を気遣っているのが感
じ取れて思わず笑みが浮かぶ。どうやら、自分の恋人と友人関係にある真琴に冷たく当たる気はないらしい。
 「それでも、俺、どうしたらいいのか、何も出来ないままで・・・・・本当に、助けてもらって嬉しいです」
 「・・・・・」
 「静の言う通り、江坂さんって優しいんですね」
 真琴の口から愛しい恋人の名前が出て、江坂の視線は隣に座る真琴に向けられた。
 「・・・・・静さんは、何と?」
 「江坂さん、見掛けはちょっと近寄りがたい感じだけど、本当はとても優しいって。朝食もよく作ってくれるって・・・・・江坂さん、料
理も出来るんですね」
 「海藤ほどに本格的じゃないがな」
 「洗濯も、何時も皺が出来ないようにちゃんと叩いて干すし、下着にもアイロン掛けるほどこまめなんですよね?」
静は見掛けによらず大雑把らしくて、初めはびっくりしちゃったって言ってました・・・・・と、言う真琴の言葉に、江坂の表情が微妙
になった。
それでも真琴の言葉を止めようとしないのは、自分がいない時の恋人がどんなことを言っているのか知りたいからだろう。
(その気持ち、分かるわ〜)
 綾辻は思わずニヤニヤと顔がにやけてしまったが、それを後の江坂に見られないように窓の方へと向けた。
 「・・・・・他には?」
 「え、え〜っと、よく、プレゼントもくれるって。静、お茶とか魚介類が好きでしょう?新茶はすごく嬉しかったって言ってましたよ?た
だ、アワビとフカヒレを箱一杯プレゼントされたのには困ったって。静は沼津のアジの干物が一番好きらしいから」
脂がのって、凄く美味しいって。俺はアジフライの方が好きだから、2人で30分も語り合いましたと言う真琴の言葉は、間違いなく
江坂の頭の中にインプットされているはずだ。
(静ちゃんって、ホント、見た目を裏切ってくれるわよね〜)
 あれ程美人で、家も裕福で、それにこんな何でも与えてくれる恋人を持っているというのに、なかなか庶民的な感覚をしている
のが好感を持てる。
もっと何か楽しい話は出てこないだろうかと、綾辻は含み笑いをしながら耳だけは後ろへと向けた。
 「あ、あの?」
 助かったという安堵感から、真琴の表情は幾分明るくなっているが、友好的とは言い難い江坂とどういう会話をしていいのか戸
惑っていたのだろう。
自然と話題は2人に共通する人物、静のものになってしまうが、それは江坂にとってもまたとない恋人の普段の表情を垣間見る
機会になったようで、何時もの冷徹な雰囲気とはまた違う口調で、江坂は真琴に問い掛けた。
 「食べ物のこと以外には?」
 「そ、それ以外ですか?」
 「・・・・・」
(理事、必死ね〜)
 「後は・・・・・全てに気を遣ってもらってるって言ってました。それが申し訳なくて・・・・・あ、でも、太朗君と話している江坂さんは
何時もと雰囲気が違って楽しいって・・・・・あ、すみませんっ」
 言ってはいけなかったことだったかと真琴が慌てて謝っている。どうせ睨んだんだろうと、そんな視線は全く気にしない綾辻は溜め
息が漏れそうになるが、意外にも江坂は真琴に対して謝った。
 「悪い」
 「え?」
 「私は、強面の奴らと対峙することが多いからな。自然と目付きも悪くなってしまう」
 「い、いいえ、気にしないで下さいっ」
 「・・・・・」
 「え・・・・・と」
 「続きを話してくれないか?」
 「あ、はあ」
 「・・・・・っ」
 どうしても我慢出来なくなってしまった綾辻はプッとふき出す。
その途端にバックミラー越しに鋭く睨まれたが、綾辻はもう笑いを止めることが出来なかった。







 【無事確保した】

 江坂から海藤へ連絡が入った時、あからさまに海藤の表情が安堵の色に変わったのが分かった。
本当ならば、直ぐにでも自分が車を飛ばして真琴の側に駆けつけたいだろうが、海藤は一瞬強く携帯を握り締めた後、深く響く
声で礼を述べた。
 「ありがとうございます・・・・・感謝します」
 気持ちを込めた礼の言葉の後、海藤は江坂にこれからの予定を告げた。
江坂をただ働きさせることは出来ず、とりあえずジュウには会わせることにすると言った海藤の言葉に、倉橋は都内のホテルから今
男が宿泊している場所を突き止めていた。この事務所からならば車で30分も掛からない。
 「はい、ではホテルで」
 電話を切った海藤は、そのまま倉橋を振り返った。
 「倉橋」
 「はい」
今度こそ、お前を連れて行くと言って欲しかった。
前回の中華料理店で、店の中に入って行く海藤と綾辻の背中を見送るしかなかった倉橋は、どんなにじれったく、心細い想いを
したのか、言葉には言い表すことは出来なかった。
どんな恐怖を味わおうとも、自分自身もそこにいたい・・・・・倉橋はそんな思いを込めて海藤を見つめる。
 「俺の留守を任せてもいいな?」
 「え・・・・・」
 「お前なら、大丈夫だな」
 「社長・・・・・」
 「行って来る」
 連れて行くことは出来ないという言葉を、違う言葉で突きつけられてしまった。しかし、その海藤の言葉の中に、自分への深い
信頼感を感じたことも確かだった。
(私は・・・・・ここで・・・・・)

 「俺の留守を任せてもいいな?」

その言葉には、海藤自身に何があっても、全ての処理は倉橋に任せるということなのだろう。
いくら江坂がその場にいたとしても、海藤の命が絶対的に守られるということは言えない。世の中には、もしもという不確かな可能
性があるのだ。
 「・・・・・っ」
 固まったように動かなかった身体が、その瞬間はじけるように一歩踏み出した。
 「社長!」
そして、今まさにエレベーターに乗り込もうとした海藤に向かって、思いがけず大きな声で叫ぶ。
 「任せてください!」
その言葉に海藤は一瞬笑みを見せると、エレベーターの扉は事務的に閉まってしまった。



 それからどのくらい経っただろうか・・・・・。
既に名古屋市内に入っていたらしい真琴と綾辻の乗った車が都内に戻り、ジュウのいるホテルに行き、そこでどんな話をしている
のか・・・・・。
 気にならないはずはない。しかし、倉橋は通常業務を黙々と続けていた。
(大丈夫だ、きっと・・・・・)
海藤は頼りになる男だし、綾辻も、あれでも・・・・・。
(綾辻さん・・・・・)

 「倉橋、心配を掛けた」
 「倉橋さん」
 それから数時間後、倉橋は海藤と真琴の無事な顔を見、綾辻から悪戯っぽい笑みを向けられる。
 「・・・・・いいえ、ご無事で良かったです」
涙を零すことなく、笑顔で3人を迎えることが出来た自分を、倉橋は少し褒めてやりたくなってしまった。