千三つ せんみつ
8
海藤の幼い頃に暮らしていた実の両親は子供に無関心で、食事は家政婦が作ってくれていたし、叔父である菱沼(ひしぬま)
に引き取られてからは、彼が美食家であったことと、その妻の涼子(りょうこ)が調理師免許を持つほどの料理好きだったこともあっ
て、食事に関してはかなり良いものを食べていた。
成長してからは自分で食事を作ることは苦ではなかったし、真琴という愛する存在が出来てからは彼に美味しいという笑顔を
浮かばせたくて、美味い料理屋を選んで連れて行っていた。
倉橋も、裕福で厳格な家庭環境で育った為か、ほとんど外食というものはせず、したとしても両親の知り合いの店というものが
ほとんどだった。
大学を卒業してからは外食の機会も増えたが、元々食の細い倉橋は食べないでいても苦ではなく、綾辻と付き合うようになっ
てからは(恋人関係になる前から)珍しい物や美味しい物を食べに連れて行ってもらったが、基本的に倉橋は食事自体に興味
がない方だった。
そんな2人にとって、本来鮨というのは檜のカウンターの前に座り、熟練の職人が注文ごとに握って、こだわりの醤油や、塩、ワ
サビ、タレを、食材毎に変えて出す・・・・・そういうものだったが。
「・・・・・」
「・・・・・」
「ほら、古河さんも森脇さんも遠慮しないで・・・・・って、そういう値段でもないんですけどね」
「じゃあ、遠慮なく、いただきますっと」
「おいっ、森脇、いきなり大トロに手を出すなっ」
真琴と古河と森脇は、早速というようにテーブルの横を流れる皿を取っているが、倉橋も海藤もそれを見ているだけでなかなか
手が動かなかった。
(これ・・・・・どれを取っていいんだ?)
やがて、海藤が卵の皿を取った。隙のないスーツ姿の美貌の男が卵を食べるのはなかなか見ない図柄だが、真琴はワクワクと
した表情で海藤を見つめている。
「どうですか?」
「・・・・・意外に、美味いな」
「そうでしょうっ?ここ、凄い人気店なんですって!何時も行列が出来るほどらしいんですけど、今日は店内もそれ程混んでな
かったですし、ラッキーですよね?」
真琴の笑顔に海藤も笑いながら頷いていたが、倉橋はどのタイミングで皿を取っていいのか分からない。
目の前に座っている古河と森脇の前にはドンドン皿が積まれていっているのに、倉橋は今だ割り箸を割って持っているだけの状態
だ。
「倉橋さん・・・・・えっと、あまり好きじゃなかったですか?」
そんな倉橋に、真琴が不安そうな顔を向けてきたので、慌てていいえと言いながら、パッと手を出して皿を取った。
(・・・・・プ、プリン?)
(克己、可愛い〜!)
どうしたらいいのだと、珍しく目が泳ぐ倉橋を見て、綾辻は腹が痛くなるほどに笑いを堪えていた。ここで大声で笑ったら、倉橋
の機嫌が悪くなるのは目に見えている。
(何も心配しなくていいのにね〜)
口に大トロを遠慮なく放り込みながら、綾辻はさりげなく店の中を見回した。
真琴がこの店へと予約の電話をした後、綾辻は直ぐに手を回してこの店を貸切にした。今、店の中にいる客は、綾辻が用意し
た組関係や友人達ばかりだし、店の周りにはちゃんと見張りも立ててある。
せっかく真琴が自分で選んだ店で、自分が奢ろうとしているのに、それを自分がしゃしゃり出て仕切ろうとは思わないが、海藤の
立場を考えればそれなりの用心はしていなければならなかった。
そのことは倉橋に言っていないので、倉橋は食事をするというよりも周りに向ける警戒の方に気が取られているのだろうが・・・・・
そのせいで犯してしまった失敗があまりに可愛いので黙っていようと思う。
「か〜つ〜み〜。いい大人がプリンなんて取っちゃって、みんな見てるわよ〜」
「こ、これは・・・・・」
「どうせ食べれないでしょ。こういうのって一度手にしたものは戻しちゃ駄目なんだから、私が食べてあげましょうか?」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・お願いします」
渋々皿を差し出した倉橋の手にわざと触れながら皿を取ると、綾辻は笑いながら甘いプリンを口にする。
(このくらいの嘘なんて可愛いものよね〜)
基本的に、綾辻は倉橋に嘘は言わない。倉橋はよく《嘘吐きだ》とか、《秘密主義だ》とか言うが、それは倉橋のような純粋で綺
麗な心の持ち主は知らなくてもいいことばかりだ。
たった一つの真実を守る為ならば、綾辻はどれだけの嘘だって付ける。
そして、そのことも・・・・・倉橋には言うつもりはなかった。
「あ、美味しいじゃない、プリンも」
「綾辻さん、途中でデザート食べる派ですか?」
「私はそんなに順番気にしないわね〜。好きなものを好きな時に食べるって感じ?」
「あ、俺もそうですよ。カレー食ってる時、急に味噌汁飲みたくなるし」
自分の言葉に反応した森脇に、綾辻は同士を見つけたとふふっと笑う。
「納豆食べてる時、サンドイッチを食べてたり?」
「ラーメンの後、ケーキ食ったり」
「・・・・・あ〜ん、本当にうちに来ない?もりちゃん。可愛がってあげるわよ?」
「だから、遠慮しますって。俺は平々凡々に、たま〜に刺激があるくらいがちょうどいいんですよ」
森脇は笑って答え、心配そうに自分を見ている古河に、お前もだよなと言っている。このまま見過ごすには惜しい人材だが、真琴
という繋がりがあればこのまま縁が途切れることはないだろう。
(美味しく育ってから頂いちゃうか)
毎日刺激があるのも楽しいぞと、会うごとに呪文のように言ってやろうと思った。
(また素人を勝手に勧誘して・・・・・)
聞けばちゃんとした進路も考えている若者を、わざわざ裏の世界に引きずり込むことはないだろう。
倉橋は眉を顰めて表面上は楽しそうに会話をしている2人を睨んだが、ふと逸らした視線の中に海藤が湯飲みを手にしようとし
ているのを見てさっと自分が取った。
「私が入れますので」
そうは言ったが、テーブルには空の湯飲みが6つあるだけで、そこには急須も茶葉も見当たらない。
倉橋は顔を上げ、近くで鮨を握っている若い職人を呼んだ。
「申し訳ありませんが、お茶をいただけますか?」
「は?」
「お茶です」
一度で分からなかったのかと、倉橋はしんなりと眉を顰めた。
「気にすることないですよ、倉橋さん。俺だって初めての時は全然分からなかったし」
真琴が慰めるように言い。
「そ、そうですよ。別に知らなくっても困らないことだし」
古河が、人の良さそうな顔に汗を滲ませながら言って。
「そうそう。知らないなんてカッコイイじゃないですか。歳を取ってから新しいことを知るのって面白いし」
少し、失礼な森脇の言葉に。
「歳なんて、克己に対して失礼よ、もりちゃん。克己、覚えなくていいのよ?私が連れて行くのはちゃんとお茶まで出してくれるお
鮨屋さんだから」
そんな全く見当違いのことを言いながら、カウンター横に直接セットされているお茶の機械を慣れた手付きで操作している綾辻
を、倉橋は今にも怒鳴りそうになるのを抑えて見つめる。
(こんな所に・・・・・)
せめて、ポットでも置いておけばいいじゃないかと内心毒吐くが、それが虚しい抗議だというのは分かっていた。
「綾辻」
「・・・・・」
「気にするな」
俺も知らなかったと言う海藤の労わりの言葉が、一番強く倉橋の胸に響くような気がした。
「は〜い、社長と見詰め合ってたらマコちゃんに叱られちゃうわよ?ほら、みんなドンドン食べましょー!」
「・・・・・あなたは少し遠慮をしたらどうですか」
「まあまあ。はい、克己は蟹が好きでしょ?」
倉橋の言葉を全く聞いていないかのように、綾辻が鮨の皿を目の前に置いてきた。しかし、それはどう見ても蟹には見えない。
「これ・・・・・本当に蟹ですか?」
「カニカマっていう、庶民のつよ〜い味方よ。蒲鉾なのに蟹風味なの」
食べてみてという綾辻の笑みの意味をどう取ればいいのか分からない。
(蒲鉾なのに・・・・・蟹?)
想像がつかないまま、恐る恐る口にする自分を、綾辻だけではなく他の者達もじっと見ている。
「・・・・・どう?」
「・・・・・確かに、蟹風味ですね。どんな製法なんでしょうか」
感心したように、それでも真剣に呟いた倉橋に、一瞬後、そのテーブルは爆笑の渦に包まれた。
何が笑われているのか分からない倉橋は、それでもこの不思議な体験を共に味わってくれそうな相手に、今自分が食べたものと
同じ皿を、回っているレーンから取って差し出す。
「社長、食べてみてください」
「・・・・・克己〜、それは本当のズワイ蟹!」
「え?」
そんなに大食いの人間もおらず、酒も頼まなかったが、それでも男が6人だ。
皆の箸が止まった頃、真琴がトイレに行きますというわざとらしい言い訳をしながらこそこそレジに向かうのを見ていた海藤は、その
まま無言で自分の財布を取り出そうとする。
古河も、森脇を肘で小突いている。
倉橋まで立ち上がろうとしているのを見た綾辻は、これだからと大きな溜め息を吐いてしまった。
(せっかく、マコちゃんが男らしく奢ってくれるって言ってるのに)
「社長、過保護ですよ。古河ちゃんも、もりちゃんも、ここだけは割勘は無し!克己も、ね?」
「綾辻さん・・・・・」
「マコちゃんにとっては少し高めの外食かもしれないけど、これがあの子の私達に対する礼の形なんだから、ここは気持ちよくご馳
走になりましょうよ」
「・・・・・」
綾辻の言葉に海藤は苦笑し、古河と森脇も顔を見合わせて頷いた。
倉橋はまだ何か言いたそうだったが、海藤が行動に移さない限り自分が勝手に動くことも出来ないと思ったのだろう。
そのまま大人しく座り直すと、自分の前に半分だけ残っていたメロンを黙って口にする。真琴が奢ってくれるのだ、無駄にしては申
し訳ないと思ったのだろうが、そうでなくても何時もよりは食べている(何しろ回転寿司の主な材料は米だ)はずの倉橋は相当に
腹が膨れているはずだ。少し苦しそうな表情に、大丈夫かと綾辻は思ってしまう。
「・・・・・ご馳走様でした」
それでも、何とか食べ終わり、きちんと手を合わせてそう言う倉橋に育ちの良さを見て、綾辻は心の中でくすっと笑った。
(今度は、立ち食い蕎麦屋にでも連れて行ってやろうっと)
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