STEP UP !
11
「・・・・・」
2階から階段を下りてきた太朗は、そっと茶の間を覗いてみる。
(・・・・・いた)
目的の人物は座って新聞を広げていた。太朗はは〜ふと大きな深呼吸を一度してから、わざとドタドタと音を立てて茶の間へと
入っていった。
「おはよ!父ちゃん」
「ああ、おはよう」
きちんと新聞から顔を上げて言葉を返してくれた父の顔は、厳ついながらも何時もと同じように優しく笑ってくれている。
「・・・・・」
(あ、なんか機嫌が良さそう)
この分だったらいいかと、太朗は父の前に座りながら切り出した。
「今日のジローの散歩、ジローさんも来るんだ。父ちゃん、今日は非番だろ?一緒に・・・・・」
「太朗」
太朗が最後まで言い終えるのを待たずに、父は言葉を止めてしまった。普段ならばどんなことでも、例えそれが言い訳でも最後
まで聞いてくれる父にしてはらしくない行動だ。
「小学生でもないお前にこんなことを言うのはおかしいだろうが、門限は夕食までだぞ。遅れたら来月の小遣いは無しだ、いい
な?」
「こ、小遣い無しってっ、待ってよ、父ちゃん!」
「夕食は早くても7時だ。それまでには十分帰ってこれるだろう?年寄りのジローはそんなに散歩好きじゃないだろうし」
「と、父ちゃん」
「ほら、早くしないと遅刻するぞ」
恋人である上杉と顔合わせをして、一緒にご飯も食べて、お酒も飲んで。
もちろん1回くらいで2人が・・・・・と、いうより、父が自分と上杉の関係を認めてくれるとは思っていなかったが、やはり前途は多
難のようだ。
「母ちゃん〜」
「外出禁止じゃないだけいいと思いなさい」
元から父の味方だとは分かっていたが、母は全く太朗の言葉に耳を傾けてくれない。いや、耳を傾けてはくれるのだが、自分の
ことは自分で決着をつけるようにと笑いながら言うのだ。
(俺だって、出来るならしたいって思ってるけど〜)
「ほら、本当に遅刻するわよ」
「・・・・・頭痛い。熱もあるかも」
「考え過ぎの知恵熱でしょ。ほら、ご飯ご飯」
ペシッと太朗の額を叩いた母は、それでも一瞬だけ観察するように太朗の顔を覗き込む。そして、やれやれというように苦笑を
浮かべながら、父の大好物の大根の味噌汁をつぎ始めた。
「・・・・・」
「・・・・・」
じーっと視線を向けていても少しも振り返らない母は、本当にこれで話は終わりだと思っているようだ。
太朗は諦めたようにはあ〜っと溜め息をついた。
「分かった、分かった、耳元でそんなに怒鳴るな」
ドアをノックして部屋に入った小田切は、いきなりそう言う上杉にちらっと視線を向けた。
言葉はいい加減な調子だが、その顔は楽しそうに笑っている。この顔だけで、小田切は電話の相手が誰なのか容易に想像がつ
いてしまった。
「じゃあ、後でな」
部屋の時計を見るとそろそろ午後1時になる。多分、昼休みを利用して掛けてきたのであろう上司の学生の恋人を思い浮か
べながら、小田切は上杉の目の前に先程パソコンで打ち出したばかりの書類を差し出した。
「・・・・・」
細かな数字の羅列した書類を一瞥しただけで上杉は眉を潜めている。その表情の変化を全て承知した上で、小田切は水を
差し向けてみた。
「今の、太朗君ですね?」
「ああ、いきなり文句を言われてな」
「文句?」
「オヤジ」
そう言う時にだけ、上杉は口元を緩めた。困ったというよりは、何かを企んでいるような・・・・・どちらにせよ、素直な太朗には見
せられない人の悪い顔だ。
「・・・・・ああ、父親のことですか」
そして、それに答える自分の顔も、きっと上杉と同じようなものだろう。太朗の父親ということを抜きにすれば、一生関わらないか
もしれない類の人物だ。
言葉は悪いが、気にしていても仕方が無かった。
「どうしました?」
それでも、わざわざ太朗から連絡がきたくらいだ。食事会から3日、いったいあの父親の中でどういう風に上杉の位置は決まっ
たのだろうか?
「この間の食事会のことにはいっさい触れずに、俺とのせっかくのデートの時間を邪魔しようとしているんだと」
「なるほど」
(それくらいで済んでいるのなら十分だと思うけれど)
まだヤクザだと知られてはいないが、自分とそれ程歳の違わない男が息子の恋人として名乗りをあげたのだ。警察などに行かれ
たら厄介だと思っていたが、デートの制限くらい可愛いものだと思った。
『父ちゃんが笑って怒ってるんだ!』
突然掛かってきた電話。
太朗からだと直ぐに分かった上杉は、全く躊躇うこともなく電話に出た。今日は犬の散歩にかこつけたデートの日だ。早く会いた
いと、可愛くねだられるかと思った。
しかし、可愛い恋人の口から出てきた言葉はそんな甘いものではなく、どうしたらいいのかと焦った助けを求めるような言葉で、
直ぐに納得はいったが、上杉としても答えようが無かった。
「この間は、結局殴られませんでしたしね」
「やっぱり、殴られた方が良かったと思うか?」
「それはそれで、後が大変だったと思いますが」
「・・・・・そうだろ?」
上杉は何発でも殴られて構わなかったが、もしもあの時苑江が上杉を殴っていたとしたら・・・・・あの仲の良い親子の間に距
離が出来たかもしれない。
いくら面白くないと思っていても、太朗と苑江の関係を壊したいとは思わなかった。
(やっかいだな、マジっていうのは・・・・・)
本気だからこそ、相手の親のことまで気になってしまう。慣れない感覚だが、太朗と付き合っていく限り、こういう思いは消えるこ
となく付きまとうのだろう。
「で?」
「ん〜?」
「どうしますか?もう一度、今度は頭を下げてみますか?」
出来るわけがないと思っているのだろうか、小田切は笑いながら言った。
「そんなことで許してくれやしないでしょうけど」
「分かってるなら、身になりそうなアドバイスをしろ」
「したって、言うことを聞かないくせに」
「聞けないようなことばっかり言うからだろーが」
頭がいいくせに、本気で考えようとしないから性質が悪い。いや、多分小田切に頼ろうと思うこと自体が無茶なことなのかもしれ
ないのだろう。
(結局、自分で考えるのが一番手っ取り早い)
太朗は門限がどうとか言っていたが、会うこと自体を禁止されているわけではない。顔を見て、甘い唇に触れてから、じっくりと2
人のことを話し合うしかないかと、上杉は早く時間が過ぎろと時計を睨んだ。
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・タロ、どういうわけだ、これ」
「・・・・・これとは何ですか。一応あんたも社会人なら、太朗に悪い言葉を教えないで貰いたい。いいか、太朗、言葉は大切だ
ぞ?けして悪い男の見本通りにしないように」
「・・・・・」
(その言葉はいい手本だって言うのか?)
夕方、何時もの待ち合わせの公園に車でやってきた上杉は、そこに立っている大小の苑江と、犬のジローを見て溜め息をつく
のを隠せなかった。
(まさか・・・・・一緒に来るとはな)
「父ちゃんが、一緒にジローの散歩に行くって言ってさ」
「・・・・・」
太朗はニコニコ笑いながら上杉に言った。
(・・・・・可愛い顔しやがって)
きっと、太朗は父親が上杉と歩み寄ろうとしてくれているのだと思っているのかもしれないが、上杉はこの父親がそんなに甘いとは
とても思えなかった。
「・・・・・」
「公園で犬の散歩とは、多少は太朗の年齢を考えてくれたようですが、もちろん、暗くならないうちに帰してくれるんでしょうね」
「・・・・・一応、そのつもりだったが」
「そうですか。おい、太朗、散歩を続けるぞ」
「うん!行こう、ジローさんっ」
「・・・・・」
(おいおい、この面子で暢気に犬の散歩が出来るって思ってんのか、こいつは)
多分・・・・・思っているのだろう。
「ほらっ、ジローさんっ、早く!」
「・・・・・はいはい」
セックスする時間まであるとは思わなかったが、キスをして、少し身体を弄るくらいは出来るかもしれない・・・・・そう思っていた上
杉にとってこの展開はけして面白くはないのだが、苑江は多分それに輪をかけるほど面白くはないだろう。
(俺の顔なんか見たくないだろうに・・・・・それでも太朗の為にここまで来るのか)
太朗のファザコンなど遥かに凌駕する苑江の思い。太朗を本当の意味で手にするには、この父親はどうしても突破しなければ
ならない関門だ。
(先が長いかもなあ)
簡単には決着が着かないかもしれない・・・・・上杉は太朗に見えないように顔を背けると、はあと何度目になるか分からない溜
め息をついた。
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