大力の渦流











 何時ものように午後11時過ぎ、バイト先の裏口から出てきた西原真琴(にしはら まこと)は、そこにいる男の姿を見て
驚いたように呟いた。
 「海藤さん?」
 「お疲れ様」
 「どうしたんですか?今日は遅くなるって言ってたのに・・・・・」
 「顔だけ出して帰ってきた」
そうい言いながら車の中に誘導されて真琴は中に乗り込む。
驚きはしたものの、今日は起きているうちに顔が見えないと思っていたのでやはり嬉しい気持ちの方が大きかった。



 今年の春、無事大学二年に進級した真琴は、相変わらずピザ屋のバイトも続けている。
恋人である海藤が本当は真琴が遅くまで働くことにあまり賛成していないのは感じていたが、ここは自分で探したバイト
先で、店の雰囲気もとても心地良かった。
それに、いくら海藤にお金があっても、海藤に何もかも依存することは真琴の小さなプライドが許さない。
少しずつでも自分の足で立って歩きたいと思うのは、海藤を愛している気持ちとはまた別のものだった。

 海藤がヤクザだという事にはまだ時々怖いと思うことがある。
男同士という事に、なぜ好きになったんだろうと振り返りたい時もある。
それでも・・・・・自分は海藤を選んだし、海藤も自分を選んでくれた。
取り合った手を、今更離すことはとても考えられなかった。



 ふと、真琴は海藤の纏っている空気に違和感を感じた。
視線が合えば優しく笑んでくれるし、握ってくれる手は温かい。
しかし、じっと前方を見ている時、近寄りがたいほどの孤独を感じてしまうのだ。
(・・・・・何かあったのかな・・・・・)
 一緒に暮らし始めてから、海藤がこんな表情を見せることなどほとんどなかった。
ただ、気軽に何かあったかと聞くのは少し躊躇われた。海藤はヤクザの組の長という他に、普通の会社の社長もしている
ので、どちらの問題か真琴には分からないからだ。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 そんな真琴の不安を敏感に感じとった海藤は、少しだけ雰囲気が柔らかくなって言った。
 「何も無いから心配するな」
 「・・・・・本当ですか?」
 「ああ。・・・・・少し、面倒なことを押し付けられただけだ」
 「面倒なこと?」
詳しく言わないという事は、それは海藤の裏の顔の問題なのだろう。
真琴も聞いたとしても自分は何も出来ないので、心配いらないと言ってくれた海藤の言葉を信じることにした。
 「それと、明日からしばらく別のマンションに移ることにした」
 「え?」
 前触れも無く言われた言葉に、真琴は驚いたように聞き返す。
 「別って、引っ越すんですか?」
 「いや、お前が今のマンションを気にいっていることは知っているしな。ごく短期間・・・・・二週間だけだ」
 「二週間借りたんですか・・・・・」
 「買った。賃貸じゃセキュリティー対策も出来ないしな」
 「・・・・・」
 「いいか?」
 「・・・・・海藤さんも一緒ですよね?」
 「当たり前だ。他に誰と住む気だ?」
笑みを浮かべてそう言ってくれる海藤に、真琴はぎこちなく頷いた。



(どんなに万全だと思っても、完璧では有りえない・・・・・)
 今真琴と2人で住んでいるマンションのセキュリティーもかなり精度が高いものだが、あの場所はある程度裏の人間には
知られている場所だ。
だからといって直ぐに襲われるという事は暗黙の了解で無かったが、今回ばかりはそれも信じることは出来ない。
それだけ、今回はきな臭い・・・・・のだ。
(真琴の存在はかなり知られているだろうし、利用しようとしても可笑しくはない)
 結婚しておらず、子供もいない海藤。両親揃ってこの世界の人間で、伯父には大御所がついている。
そんな付け入る隙が全く見付からない海藤の、唯一といってもいい弱みは真琴しかいない。
特定の女がいない海藤が、共に暮らしている若い男の存在は、かなりの範囲で周りには知れ渡っているはずだった。
普通で言えば素人に手を出すのがご法度だが、今回のことで得る利益を考えればそうはいっていられないだろう。
 「・・・・・海藤さん、大丈夫?」
 「ん?」
 自分はどんな表情をしていたのか、真琴が気遣わしそうに顔を覗き込んできた。
真琴に心配掛けるほど顔色が悪いのかと自嘲しながら、海藤はその肩を強く抱き寄せる。
 「大丈夫だ」
 「でも・・・・・」
 「大丈夫」
真琴に言い聞かせるのと同時に自分にも言い聞かせ、海藤はそっと真琴の唇にキスを落とした。



 そろそろ帰ろうかと会社の自室を出た海藤の秘書的役割をしている開成会幹部、倉橋克己(くらはし かつみ)は、廊
下の向こうに同じく幹部である綾辻勇蔵(あやつじ ゆうぞう)の姿を見付けた。
エレベーターの前はちょっとした休憩所になっていて喫煙も出来るのだが(しかし、ここで煙草を吸う勇気がある者は綾辻
くらいしかいない)今はもう間接照明だけの薄明かりになっている。
 そこのソファに深く身をもたせ、長い足を組んだ綾辻は、火が付いていない煙草を咥えたままじっと空を見つめていた。
その姿は普段の賑やかな男とはまるで別人のような姿だ。
(社長が戻られた時からか・・・・・)
 午後9時過ぎ、顔合わせという名ばかりの美味くもない酒を飲んだであろう海藤は、戻ってきて直ぐに綾辻だけを部屋
に呼んだ。
それは特におかしなことではなかったが、その後部屋を出てきた綾辻と擦れ違った時、思いがけずその頬が強張っていた
ことに倉橋は気がついた。
滅多なことでは動揺しない胆の太い男のその表情は、倉橋さえも不安にした。
 その後海藤には会ったが綾辻の話は一切無く、そのまま真琴を迎えに行く為に帰宅したが・・・・・。
 「・・・・・」
倉橋はゆっくりエレベーターに向かう。
すると靴音を聞き取ったらしい綾辻が視線だけを上げ、倉橋の姿を確認して目を細めた。
 「遅くまでご苦労様」
 声の響きは普通だ。
 「どうしたんですか、こんなところで」
 「ん〜?克己がこの後付き合ってくれないかなあって思って」
 「・・・・・私は酒は駄目ですけど」
 「隣で座ってくれてるだけでいいのよ」
 「・・・・・」
(・・・・・らしくない)
普段ならば強引にでも抱きついてきて、行こう行こうと煩く誘ってくるはずだ。
それ自体はあまり嬉しいことではないが、通常と違うという事にも強い違和感を感じてしまい、ひいては倉橋自身のストレ
スにもなってしまいかねない。
 「・・・・・分かりました」
 「え?」
 「食事だけは付き合いましょう」
 倉橋のこの返事は期待しなかったのか、かえって綾辻は驚いたように目を見張っている。
その表情を見て少しすっきりした倉橋は、エレベーターのボタンを押しながら振り向いた。
 「一緒に下りないと、今の話は無しにしますよ」