大力の渦流



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 真琴のバイト先のピザ屋「森の熊さん」は、1日臨時休業をしただけで、翌日からはもう営業を開始していた。
警察やピザ屋の本部の人間も今だ出入りをしているものの、それでも表面的には何時もの日常が戻ったような感じがす
る。
 「はい、ピザ「森の熊さん」です」
 真琴は元気に注文の電話に出ていた。
放火犯とニアミスをした真琴のことをみんなが心配してくれたが、真琴自身の心配はそれとは別方向にあった。
自分が店に出ている限り、またあんな事件が起きるかもしれない。今度は、もっと酷いことかもしれない。
そう思うと、せめて海藤の選挙が終わるあと数日間は店は休もうと、今日店に出てきてから直ぐに先輩の古河にその旨を
伝えた。
古河は真琴がかなりあの事件に参っていることを知っていたので、その申し出を直ぐに了解してくれた。
 「・・・・・はい、ありがとうございました。お届けするまでしばらくお待ちくださいね」
 電話を切った真琴は厨房に注文内容を伝えると、その視線をふと店の時計に向けた。
まだ午後8時前だ。
(外で待ってるのかな・・・・・)
ここまで送ってくれた海老原はそのまま少し先に車を止めて、真琴の仕事が終わるまでそのまま待機してくれている。
狭い車の中で待ってくれているのが申し訳ないが、真琴としても直ぐ傍に知っている人間がいてくれるのは心強かった。
 「あ、古河さんっ」
 「どうした?」
 「ちょっと休憩していいですか?」
 「ああ、いいぞ」
 「すみません」
 海老原に差し入れを持って行こうと思い立った真琴は、厨房に行ってピザのサブメニューである唐揚げやポテトを社員
価格で購入すると(かなりサービスしてくれたが)、店内の自動販売機でコーヒーを買って外に出た。
海老原がいるのは、店の道路を挟んだ反対側のコインパーキングだ。
 「あ」
 店から出た真琴の姿に直ぐ気付いた海老原が車から出てくる。
それに手を振って応えた真琴が、十数メートル離れた横断歩道に駆け足で向かっていると、
 「・・・・・っ?」
いきなり、車が真琴の直ぐ横に止まった。
 「・・・・・」
(な、何?)
この辺りは店が多く、路上駐車をする車も多い。
しかし、今止まった車は真っ赤な外車のスポーツカーで・・・・・真琴は嫌な予感がしてしまった。慌ててその場から離れよ
うと踵を返した時、車の中から1人の女が出てきた。
 「海藤会長を知ってるわよね?」
 「・・・・・っ」
 女の言葉に、真琴は無意識の内に足を止めた。
 「こっちを向きなさい」
 「・・・・・」
 「聞こえないの?」
命令し慣れた声。
真琴は意を決して振り向いた。
 「・・・・・ふ〜ん」
 頭の先から爪先まで、腕を組んで女は真琴を見つめていた。
(だ、誰だろ・・・・・)
真琴にとっては一度も面識が無い若い女だ。
セミロングの髪は綺麗な栗色に染められて巻かれ、化粧も完璧だった。鮮やかなワインレッドのスーツを身に纏っている
が、そのスカートの丈はかなり短い。
容姿的には綺麗だと思うが、きつい表情と蔑みを込めた眼差しが、せっかくの容貌を半減させているような気がした。
 「・・・・・ふつー」
 「あ、あの、どなたですか?」
 「私?名前知ってどうするの」
 「ど、どうするって・・・・・」
 一方的に相手に名前を知られている状態がどんなに気持ちが悪いのか、目の前の人物は分からないのだろうか?
(それに、海藤さんのこと、会長って・・・・・)
社長ではなく、会長と呼ぶのは海藤の組関係の人間だけだ。
もしかしたら立ち止まったのは失敗だったかもしれないと真琴が思い始めた時、ようやく海老原が女の前に真琴を庇うよう
にして立ちふさがった。
 「申し訳ありません、どなたですか」
 「・・・・・誰」
 「海老原といいます」
 「・・・・・この男の護衛?海藤会長、わざわざこんなのに護衛付けてるの?」
 辛辣な物言いに海老原の表情は固くなったが、若くして海藤の一番大切な人間を守る役に就いている海老原の忍
耐力はかなりあった。
 「どなたでしょうか」
もう一度同じ問いをすると、女は海老原に庇われている形の真琴に視線を向けた。
 「どんなに綺麗な男かと思って来てみればこんなだし・・・・・。あんた、男の分際で、あの人の傍に居続ける気?」
 「・・・・・」
 「尻を差し出して喘ぐしか能がないんでしょうね。あんた、ただの大学生だし」
 「・・・・・っ」
 「女はね、男を受け入れる場所がちゃんとあるの。尻が好きなら、差し出せるのよ。海藤会長もあんたに無駄な種付け
するより、私の中でイッてくれれば子供だって作ってあげられるのに」
 「・・・・・少し、言い過ぎじゃないですか」
堪りかねた海老原が一歩足を踏み出した時、女はフンッと顎を上げて言い放った。
 「海藤会長が理事選に勝てば、嫌でもあんたはお払い箱よ。姐さんは女がなるっていうのが常識なんだから」
そう言うと、女は最後まで名乗らずに車に戻り、そのまま車は爆音をたてて走り去っていった。



 「大丈夫ですか?」
 車が走り出して直ぐ、海老原は真琴の顔を覗き込むようにして聞いてきた。
 「は、はい、大丈夫・・・・・」
(色々考えるよりも前に・・・・・驚いただけ)
女の言葉を聞きながら、真琴が思い出していたのはかつて自分を誘拐しようとした川辺アンナのことと、海藤の伯父、菱
沼の妻涼子が用意した、海藤の見合い相手のことだった。
 アンナは海藤と直接関係は無かったようだったが、自分の男の為に真琴を誘拐しようとした時、海藤へのほのかな想い
を口にしていた。
涼子が選んだ海藤の見合い相手とは会わなかったものの、立場が上になればなるほどこういった状況が増えていくのだと
涼子に言われた。
 きっと、今現われた女は、理事になるかもしれない海藤と繋がりを持ちたい相手なのだろう。
海藤本人を見れば、権力ももちろんだが男としての魅力も十二分にある。欲しいと思っても仕方がないと思えた。
(・・・・・結婚、したいのかな)
 「真琴さん」
 「・・・・・」
 「真琴さん」
 「・・・・・え、何?」
 「今のは気にされなくていいですよ。名前も名乗れないのなら、きっと社長も相手にしていない問題外の人間でしょう。
真琴さんが気に留められることはないですよ」
 「・・・・・はい」
 海老原の言葉に頷いた真琴だったが、意識は別の方向にあった。
たとえ今の相手が海藤の傍に立つことがなくても、理事となった海藤には次々と花嫁候補が現われてくるだろう。

 「これからもっと力を付けていけば、周りは貴士を放っておかない。次から次へと降る様に話がくるわよ」

涼子の言葉が頭の中に響いた。
(これは・・・・・このことだったんだ)
 「真琴さん?」
 「あ、俺、お店に戻らないとっ。これ、差し入れです、食べてください」
 真琴は手に持っていた袋を海老原に押し付けるように渡すと、そのまま走って店に戻った。
 「マコ?」
 「休憩、もういいですから」
カウンターに戻りながら、真琴は更に考える。

 「それでも平気?」

あの時、自分は涼子に何と答えただろうか・・・・・真琴は自分の思考の中に沈み込んでいった。