大力の渦流
17
午後11時。
仕事が終わった真琴が店の裏口から外に出ると、そこで待っていたのは海老原ではなかった。
「海藤さん・・・・・」
「疲れたか?」
車の中ではなく、外で立って待っていてくれた海藤に、真琴は直ぐにああと気がついた。
(海老原さんが連絡したんだ・・・・・)
つい数時間前の出来事。
突然現われた見知らぬ女に真琴が罵倒されたことは、既に海藤の耳にも入っているのだろう。
嬉しいが、心配を掛けて申し訳ない・・・・・そんな複雑な表情のまま真琴は海藤の前に立った。
「仕事、終わったんですか?」
「終わらせた」
「・・・・・お疲れ様です」
(やっぱり、心配掛けちゃったんだ・・・・・)
終わったのではなく、無理に終わらせたことを正直に言ってくれる海藤に、真琴は少しだけ笑って言った。
海藤は真琴に嘘は付かない。隠していることは色々あるとは思うが・・・・・それは真琴が知らなくてもいい裏の仕事のこと
だろううが・・・・・口に出す言葉に嘘は言わない。
誠実で優しい人だと、真琴はそっと手を伸ばして海藤の腕を掴んだ。
「迎え、ありがとうございます」
「・・・・・早く、顔を見たかったからな」
「・・・・・どんな顔してます?」
「何時も通り可愛い」
その答えに、真琴は恥ずかしそうに目元を染めた。
(思ったより・・・・・大丈夫みたいだな)
海老原の報告を聞いた時、海藤はこみ上げる嫌悪感を抑えるのに苦労した。
全く非の無い真琴に対して、それも裏の世界とは全く関わりあいが無い真琴に対して、よくもそれだけの暴言が吐けると
思った。
海老原の報告で、その女の正体は直ぐに分かった。数日前、わざわざ事務所にまで出向いてきた大栄会会長、大家
の娘理佳だ。
あの時は伯父の名前を借りて強引に会見を打ち切ったが、理佳の方はかなり海藤に興味を持っていたようだった。
自惚れるわけではないが・・・・・もしもこの先選挙に勝ったとして、大東組の理事となった自分の権力と、今の会社が
生み出している相当な利益を考えれば、自分という存在は格好の結婚相手になるのだろう。
愛とか情とか、全く関係無しでの、利害関係だけの結婚。そんなものを海藤が望むはずが無かった。
自分の血を引く子供は要らない・・・・・自分のような人間になって欲しくないから。
女はその時々の欲を解消させてくれればいい・・・・・それも、今最愛の人間を手にしている海藤には必要が無いものだっ
た。
「真琴」
「はい?」
2人が乗り込んで直ぐに車が発進されると、海藤はその手を握り締めたまま真琴を見つめた。
「余計なことは考えなくていい」
「・・・・・余計なこと?」
「俺の為を思ってくれてるのなら、俺から離れないことだけ考えていればいい」
「海藤さん・・・・・」
その声の調子で、真琴が自分にとってあまり面白くないことを考えていた様子が分かる。
海藤は迎えに来て良かったと思った。
マンションに帰ってからでは、その分真琴に考える余地を与えてしまっていたはずで、今のような素直な反応は見れなかっ
たかもしれない。
「何を言われた?」
ほぼ正確に、海老原は報告をしているはずだが、もしかして聞き逃していた言葉もあるかもしれない。
それらも全て把握しておきたかった海藤は軽く真琴の背中を擦りながら促したが、見かけによらず頑固な真琴はそのまま
海藤に伝えることはしなかった。
「覚えてないです」
「・・・・・本当に?」
「何か言われていることは分かったんですけど・・・・・本当に良く覚えてないんです。突然でびっくりしたし、言われている
ことは、いい方はちょっと、あれだけど、間違いじゃないなって思ったし」
「・・・・・」
(・・・・・覚えてるな)
「だから、凄く腹が立ったってことは、本当にないんです」
「・・・・・そうか」
「心配しないで下さい、大丈夫です」
「真琴」
「大丈夫」
まるで心配する海藤を宥めるように、真琴は何度も同じ言葉を繰り返す。
海藤はそんな真琴の横顔を見つめるしか出来なかった。
マンションに帰り、真琴に先に風呂に入らせると、海藤はそれまで辛うじて浮かべていた笑みを完全に取り去って電話を
掛けた。
『はい』
電話の相手は、ワンコールで直ぐに出た。
もうそろそろ日付が変わる時間だが、まだ仕事を続けているのだろう。
「大栄会の資金源を押さえろ」
『・・・・・今ですか?』
躊躇っているわけではなく、確認している声が返ってくる。
「直ぐだ」
海老原からの連絡を受けた時、電話の相手・・・・・倉橋も傍にいて聞いていた。海藤の怒りをリアルタイムで肌で感じ
ているだけに、倉橋はその指示があることをある程度予想をつけていたのかもしれない。
『分かりました。たいした株は持っていませんが、その会社の株を下落させましょう。後はショバ代ですが、無視してもい
い金額ですね』
「・・・・・」
『娘の方は数人飼っている男がいるようですが、そちらも別の女をあてがって離れさせます』
大家が直接事務所にやってきた時から一応の用心をしていた為か、倉橋は調査済みの資料から次々と打つ手を口に
する。
そういった段取りは全て任せても間違いがないと知っている海藤は、任せると一言だけ言って電話を切った。
「・・・・・」
同じ大東組の傘下だとか、女とか、全ては関係ない。
大切なものを傷付けられたのだ、容赦など出来なかった。
「お先に」
ゆっくりと風呂につかって上がった真琴は、そのままキッチンに入って冷やしていたアイスコーヒーを入れた。
蜂蜜を少しだけ入れると、それを窓辺に立っていた海藤に笑いながら差し出した。
「はい」
「ありがとう」
温かい風呂に入って。
大好きな海藤が傍にいて。
真琴自身はさっぱりとした気分だった。
「髪、早く乾かさないと」
「まだ暑いから後で」
「そこに座れ」
真琴の濡れたままの髪を見た海藤は、持っていたグラスをテーブルの上に置くと、肩に掛けてあったバスタオルを取って真
琴の髪を拭い始めた。
「じ、自分で出来ますっ」
「いいから」
「でも、子供みたいだし・・・・・っ」
「お前に触れる口実だ」
「・・・・・っ」
慌てて振り向いた真琴の目に映るのは、穏やかに笑っている海藤の姿だ。
「ほら」
頬に手を当てられて前を向くように促された真琴は、そのまま海藤に髪を乾かしてもらうことになった。
(は、恥ずかしい、けど・・・・・)
「気持ち・・・・・い・・・・・」
優しい指先が何度も何度も髪をかき上げてくれるのを、真琴は目を閉じて感じていた。
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