大力の渦流
20
倉橋が来るまでの小一時間、真琴はあまり記憶がなかった。
とにかく止血をしなければと、玄関先で渋る海老原を強引に部屋に上げ、そのままタオルと海藤のシャツを1枚取ってき
た。
「しゃ、社長のなんて勿体無いですよ」
「いいですからっ」
目の前の血で濡れたシャツをどうにかしないと・・・・・怪我は自分ではどうしようもないので、真琴はとにかく海老原の顔
を見つめながら言った。
海老原にしても、何時までも真琴にこんな格好を見せているのはまずいと思ったのか、一瞬思案するように目を閉じる
と、そのままバスルームを貸して欲しいと言った。
「ここで着替えたら他に汚れがつきますから」
バスルームに案内すると、後は1人で大丈夫だからとドアを閉められた。
真琴はそのままリビングに戻る気力も無く、壁を背にズルズルとその場にへたり込んで、足を抱えて俯いた。
(酷い怪我だったらどうしよう・・・・・)
心配でたまらないのに、海老原が1人で大丈夫だと言ってくれた時、真琴は情けないがホッとしたのだ。
止血や着替えを手伝って欲しいと言われたりしたら・・・・・もしも実際に傷跡を見てしまったら、自分が冷静である自信
はなかった。
(俺・・・・・役立たずだ・・・・・)
海藤が大変な時に余計な心配まで掛け、自分を守ってくれている海老原にまで怪我をさせてしまった。
自分がいなければ、海藤の憂慮は無かっただろうし、海老原も怪我をすることは無かった。
「ごめんなさい・・・・・」
(ごめんなさい・・・・・)
自分の周りにいる誰もに謝らなければならないと思った。これ程に迷惑を掛けていることが分かっても、真琴から海藤と別
れることは出来ないのだ。
「・・・・・ごめんなさい・・・・・」
静まり返った廊下に、真琴の謝罪の言葉だけが何時までも響いた。
インターホンが鳴った時、真琴は直ぐに立ち上がることが出来なかった。
身体が石になったかのように重く動かず、ただ涙で濡れた顔を上げて玄関を見つめる。
(あ、開けないと・・・・・)
早く海老原を見てもらわなければならない・・・・・そう思った時、僅かな鍵の開閉音がし、外からドアが開いた。
「真琴っ」
「!」
真っ先に入ってきたのは海藤だった。
海藤は靴を脱ぐのももどかしく思うように眉を顰めながら廊下を大股で歩いてくると、そのまま片膝を着いて真琴の身体
を抱きしめた。
「すまなかった・・・・・怖かったな・・・・・」
「・・・・・っ」
何も話すことが出来ないまま、真琴はぎこちなくバスルームに視線を向けた。
「え、海老原さん、中に・・・・・」
「分かった」
海藤は玄関を振り向いた。
その視線につられるように真琴も目を向けると、そこには倉橋と・・・・・もう1人、30代半ばぐらいの背の高い男が立ってい
る。
顎鬚を蓄えたその男は、がっしりとした体付きではあったが、少したれ目の目に愛嬌があって、真琴と視線が合うとにっこ
り笑ってくれた。
「こんにちは。患者はここ?」
「・・・・・」
見知らぬ男の姿に真琴の手は無意識のまま海藤の腕を掴み、それでも首だけは肯定を示すように頷いている。
「一之瀬(いちのせ)」
先に歩いていた倉橋がバスルームのドアを開いて男を呼んだ。
一之瀬と言われた男は、ハイハイと言いながら倉橋に続いて中に入ると、そのままドアを閉めてしまった。
ドアを開けた瞬間の、涙で濡れた真琴の顔があまりにも途方にくれているようで、海藤はただその身体を抱きしめてやる
ことしか出来なかった。
今までも刃物をつきつけられたり、放火を目撃したりしたが、こと拳銃といえば・・・・・もう、これば真琴にとっては非現実で
しかないだろう。
「海藤さん、海老原さんは・・・・・」
「大丈夫だ。このままここで手当てする」
「こ、ここで?」
「今倉橋が連れて入ったのは医者だ。金持ちのボンボンだが腕はいい」
「お、お医者様・・・・・」
一之瀬晴海(いちのせ はるみ)・・・・・女のような名前に似合わない容姿の男は、海藤の大学時代の同級生だ。
専攻は違うものの、幾つかの一般教養の講義で隣り合わせになり、短い会話を交わすようにはなったもののそれ程親し
いというわけではなかった。
再会したのは、海藤が既にこの世界に入ってから。
組付きの医者を捜していた時に菱沼が紹介してくれたのが、個人病院を経営していた一之瀬の父親だった。
海藤はそれ程に気に止めていなかったが、一之瀬の方は何時も超然としていた海藤のことを気にしていたらしい。
話はとんとん拍子に進み、一之瀬は開成会付きの医師になった。個人経営でかなりの資産家でもある一之瀬の実家
は、ヤクザとはいえしっかりとした経営母体のある海藤と手を組むことは厭わなかったらしい。
もちろん、表立って名前を出すことも無かったが、これまでにも若手外科医の一之瀬の腕を借りたのは一度や二度では
なかった。
「で、でも、病院でもないのに・・・・・」
「傷の状態は海老原が説明した。一之瀬はそれで判断したんだ、間違いはない」
「・・・・・」
締められたドアをじっと見つめる真琴を、海藤はただ黙って抱きしめていた。
時間は、15分も掛からなかった。
静かに開いたドアの向こうには、倉橋と一之瀬と共に海老原も立っている。
「海老原さん・・・・・」
「ご心配お掛けしました」
海老原は軽く頭を下げた。
血で濡れていたシャツもジーパンも既に取り替えられていて、一見してつい1時間ほど前に銃で撃たれた人間だとはとても
思えない。
新しいシャツは長袖で柄物なので、包帯を巻いているかどうかも分からなかった。
「ごめんなさい、海老原さん、俺のせいで・・・・・」
「何言ってるんですか。悪いのはこんな場所で銃を撃ってきた奴で、真琴さんは全く関係ないですよ」
「でもっ」
「本当に、気にしないで下さい」
何時もと変わらぬ飄々とした笑顔で言う海老原に、真琴もそれ以上謝る事は出来なかった。
だが、どうしても顔を上げることが出来ない真琴に、今度は一之瀬が笑って言った。
「本当に大丈夫だよ。弾は掠っただけのようだし、麻酔無しで縫っても声も上げないほどもしっかりしてるし。結構身体
鍛えているみたいだよ」
「・・・・・」
「若いんだから直ぐに治る。心配しないように」
「・・・・・はい」
渋々ながら真琴が頷くと、隣に立つ海藤が静かに口を開いた。
「悪かった」
「俺、これでも開成会の人間のつもりなんだよね。何時でも遠慮なく声掛けてよ。あ、でも、手術中は直ぐには駆けつ
けられないけど」
「うちは医者に世話になるような案件はほとんど無い。今回は特別だ」
「はいはい。君は2、3日は病院に通って来いよ?消毒をしなきゃならないからな」
「はい」
素直な返事に満足したのか、一之瀬は直ぐに玄関に向かって歩き始めたが・・・・・。
「あ」
不意に、何か気付いたかのように立ち止まると、一之瀬は振り返って海藤に笑いかけた。
「落ち着いたらゆっくり紹介してくれよ」
「分かった」
「じゃあな」
送りますという倉橋の言葉を断りながら、一之瀬はあっという間に姿を消してしまった。
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