大力の渦流
21
「克己、エビは?」
もうそろそろ夕方といってもいい時間になった頃、部屋に入るなりそう聞いてきた綾辻に倉橋は静かに言った。
「弾は掠っただけのようです。一之瀬先生に診て頂きましたので」
「そうか」
強張っていた綾辻の表情が見る間に柔らかく安堵するのを倉橋は気付いていた。
昼前から連絡がつかなくなっていた綾辻。フラフラと動き回るのは何時ものことだが、携帯の電源だけは何時も入れていた
はずの彼が、今日に限ってはそれさえも切っていたようだった。
どこにいるのか、誰といるのか、それは全部倉橋の想像でしかない。
海藤に聞くことは出来なかったし、たとえ聞いても海藤が話したかどうかは分からない。出来ることは、携帯の留守電に事
実だけを吹き込んでおくこと。
ただ・・・・・倉橋は、綾辻の身体から微妙に香ってくる匂いの持ち主が誰か・・・・・知っていた。
「まさか、銃まで出してくるとはな」
「・・・・・」
「会長は」
「真琴さんについてらっしゃいます。今日はもうこちらには来られないですよ」
そう言いながら、倉橋はゆっくりとイスから立ち上がって綾辻の傍まで歩み寄った。
元々人間嫌悪症気味の倉橋は、自分から好んで人の傍に行くことはない。
例外は海藤に真琴、そして綾辻と、開成会の何人か・・・・・。
「・・・・・克己」
「綾辻さん」
「何か、俺に聞くことあるか?」
「・・・・・」
ほとんど身長差のない2人は、向かい合えば目線もほぼ同じだ。
見下ろすことも、上目遣いをすることもなく、真っ直ぐに目線を交わすことが出来る相手・・・・・。
「なにも」
「克己」
「あなたが開成会の為を思ってすることに、私は何の異存もありません」
きっぱりと言い切ると、綾辻の目が僅かに翳った。
(どうしてあなたがそんな顔をする・・・・・?)
まるで自分の言葉が綾辻を傷付けたような気がして、倉橋は綾辻の顔から目を逸らした。
(私に何を言えと言うんですか・・・・・)
今言った言葉は真実だ。綾辻が開成会の為にすることならば、それがたとえ殺人であっても、または誰かとセックスしたと
しても、倉橋自身反対も文句も言う事は無い。
ただ・・・・・。
「電話がしたいんですが」
「ああ、悪い」
部屋から出て行く綾辻の背中を見送りながら倉橋は唇を噛み締める。
会の一員として頷けることも、倉橋克己個人としては頷き難いこともあるのだ。
(私のことを好きだと・・・・・言ったくせに・・・・・)
綾辻は溜め息をつきながら煙草を取り出して口に咥えた。
歩き煙草は厳禁だと口煩い相手は、しばらく部屋からは出てこないはずだ。
「・・・・・気付いてたな、あれは」
今まで自分が何をしていたのか、敏い倉橋はもう気付いているのだろう。全ての痕跡は消したつもりだったが、部屋に入っ
た瞬間の眉を顰めた倉橋の態度に、遅まきながら気付いてしまった。
「可愛い彼に気付かれないようにな」
別れ際の、藤永の楽しそうな声が蘇る。
(克己は気にしない方だと思ってたんだがな)
だが、例え興味は無くとも覚えていたのだろう・・・・・藤永の香りを。移り香があるほどに、密接していた理由を、倉橋は綾
辻を問い詰めないまま自分の中で完結してしまったのだろう。
せっかく最近は柔らかい気配を纏う様になった倉橋の気配は、今日はピリピリとして完全に綾辻を拒絶している感じがし
た。
(それにしても銃か・・・・・追い込まれてるってことか?)
海老原自身が狙われる原因があるとはとても思えないし、これは考えるまでも無く真琴を襲ったと知らしめる為のパフォ
ーマンスだろう。
弾は掠っただけだという事のようで、命まで狙ったという感じはしない。これは何時でも命を奪うことが出来るのだと思わせ
る為だとしか思えなかった。
「・・・・・」
「私の父親が、檜山理事と懇意なんだ」
一見、今回の選挙とは全く関係ないことのように聞こえるが、綾辻はその藤永の言葉でピンと来た。
今回、藤永の後見人として名前が上がっているが、大東組の檜山理事の姪は木佐貫に嫁いでいた。
木佐貫と真の縁戚関係にある檜山が、なせ敵方になる藤永に手を貸したのか不思議に思っていたが、これでからくりが
分かったような気がする。
「こんな茶番にあの人が付き合うなんてな・・・・・」
(いったいどれくらいの見返りを要求したんだ?)
今回の藤永の選挙の出馬は、票を割れさす為のものであることには間違いはないだろう。
「・・・・・」
実力も資金も、そしてバックについている人間も、木佐貫より海藤の方が遥かに勝っているのは周知の事実だ。2人だけ
の選挙ならば、圧倒的に海藤が勝つのは分かりきっている。
そこで藤永も一緒に選挙に出た。まずは1回目の投票で海藤を突出させないようにした。
その後、海藤は真琴のことで振り落とし、残った藤永は木佐貫に権利を譲ってしまう・・・・・なんだかまるで子供が書いた
ようなシナリオだが、今のところは成功しているようだ。
中間発表では海藤も過半数を取っていないし、意外な木佐貫の頑張り具合も良かった。
海藤サイドは、この推薦を辞退したいのは山々だ。
ただ、推薦してくれた本宮の立場もあり、その辞退の仕方が大事なのだ。
「・・・・・さて、どうするかな」
「綾辻幹部っ、海老原です!」
「・・・・・」
今は一之瀬の病院に強制的に入院させられている海老原と連絡を取りたかった綾辻は、組員が持ってきた電話の子
機を受け取りながら出来るだけ暢気に言った。
「な〜に、今日は立派なナイトだったみたいじゃない」
掠ったとはいえ、銃で撃たれ、その傷跡を縫った海老原は、2、3日は熱が出るだろう。
こちらのことは何も心配せずに休むようにと、綾辻は何時もの飄々とした口調で伝えた。
「・・・・・真琴?」
「・・・・・」
「・・・・・」
(寝たか・・・・・)
早くにベットに入ったというのになかなか眠れないようだった真琴を、海藤はずっと抱きしめていた。
怖いとか、嫌だとか、一言も口にしない真琴が返って気になっていた海藤は、せめて今日1日は真琴の傍から離れまいと
思ったのだ。
(銃を出してくるとはな・・・・・)
これは抗争ではない。あくまで同じ系列の役員選挙だ。
それなのにここまでの手段をとってきた相手に、海藤ももう穏やかな対応をするばかりではいられなくなった。
今回真琴に怪我はない。しかし、海老原は大切な開成会の人間だ。その人間を傷つけられてなお、笑って手を繋ぐな
んて出来るはずがなかった。
真琴のバイト先に火を付けた人間には・・・・・いや、正確にはそう命令した人物は大体特定出来た。
今回の発砲事件も、倉橋に直ぐに調べさせているので、そう時間をおくことなく何か分かるだろう。
投票当日までもう僅か、もう動く時かもしれない。
「ん・・・・・」
「・・・・・」
不意に、真琴が小さく身じろいだ。片手が何かを探すようにゆっくりと動き、海藤の腕を掴むとそのまましっかりと握り締
めている。
「真琴?」
起きているわけではなさそうで、どうやらこれは無意識の行動のようだ。
「ここにいる」
海藤は真琴を抱きしめた。自分の腕の中ならば、どんなことがあっても真琴が傷付くようなことはないだろう。
こんな風に無意識の内に怯えさせてしまったことを謝りながら、海藤はそのまま抱きしめる腕を解くことはしなかった。
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