大力の渦流
22
関東のとある大東組系列の組に来客があったのは、まだ昼には間がある朝と言ってもいい時間だった。
普通ならば身内でもない限り足を踏み入れることなど無いだろう組事務所。そこのドアをノックして現われたのは、雑然と
したその場に似合わないような美貌の男だった。
「ど、どちらさんで」
普段恐れるという言葉を知らないような組員達も、自分達とは違うその存在感に途惑った声を掛ける。
男はもう6月になろうとしている蒸し暑い季節なのにも関わらず、一目で上等だと分かるスーツを纏い、きっちりとしたネク
タイまでしていた。
すらりとした立ち姿の眉目秀麗な男は、眼鏡の奥からじっと事務所の中を見渡すと、その中で一番身分が上らしい男に
視線を向けて言った。
「委任状をお預かりしたい」
「い、委任状?」
「今回の大東組理事選の委任状です。もちろん、票は開成会、海藤で」
「・・・・・あ、あんた、まさか?」
「組長には、開成会海藤が自ら赴いたと連絡をして頂けませんか」
自分の組とは遥かに格が上な相手がわざわざ組事務所まで訪れたことが意外だった。
確かにこの組は大東組の系列で、今回の選挙でも票を投じる立場にはなっている。
しかし、組の規模も資産も、自慢出来るほどでもない自分達の票など、それ程気にする候補がいるとは思わなかったの
だ。
だが、この男・・・・・海藤はここまで来た。
おそらく、今回の選挙で当選するだろうと言われている最有力候補の男だ。
「わ、わざわざお越し頂いて・・・・・」
「いえ、こちらはお願いする立場ですので」
そう言うと、海藤は僅かに口元を緩めた。
(まあ・・・・・タフってことだな)
綾辻は目の前で電話で指示を出す海藤を盗み見しながら思った。
委任状を手に入れるのに、動いたのは海藤だけではなかった。
北は倉橋が、そして南は綾辻が動いて、2日で15票もの委任状を手にした。
そのほとんどは中間結果の時に態度を決めかねていた白票の組で、これで海藤は今までの分と合わせて過半数まで後
3票となった。
当日までには若干動きはあるだろうが、このままで行けば当然海藤の勝利は見えている。
「・・・・・」
ただ、しなければならないのは選挙のことだけではない。
通常の仕事も変わりなくこなさなければならないので、3人の疲労はかなり溜まっていた。
それでも誰も疲れたと口にはしないし、仕事が滞ることは無い。珍しく綾辻も積極的に倉橋を手伝っているので、本来な
らば何時もの2倍ほどの負担があるはずの倉橋も、1.5倍ほどの量に落ち着いていた。
「次はどうします」
綾辻は倉橋が入れてくれたコーヒーを飲みながら海藤に聞いた。
電話を切ったばかりの海藤も、ようやく落ち着いたようにソファに座っている。
「後は動かなくても票は流れる」
「過半数は決まりだという事ですね」
「藤永の票も多分来るだろうな」
唐突に藤永の名前を出された綾辻の片眉が動き、チラッと倉橋の顔へ視線を走らせた。
しかし、倉橋は全くその視線を気にすることは無く(頑なに無視しているだけに意識しているのが良く分かるか)、自分用
に入れたコーヒーを飲んでいる。
(こっちもどうにかしないとな・・・・・)
海藤には、藤永から聞いた話の必要な部分だけ報告した。
それを知った方法を海藤が聞くことは無かったが、ただ一言、
「大事なものを間違えるな」
とだけ、言われた。
海藤に言われるまでもなく、綾辻の心はごくシンプルだ。
尊敬して、命を預けられる相手が海藤。
愛しくて、命を投げ出せる相手が倉橋。
後は、好きか嫌いかに振り分けていくだけでいい。
その自分の命さえ惜しくないほどに思える相手を悩ませていることも自覚はしているが・・・・・とにかくこの選挙が終わるま
では私事では動けないのだ。
(もう少し待ってろよ、克己)
自分が実際に動き、腹心の部下である倉橋と綾辻も優秀な働きをして、当初の想像よりも少し早く票は過半数を超
えそうだ。
(これで、相手は確実に動くな)
海藤を理事にはしたくない人物。あるいは、理事になるであろう海藤に利権を乞う人物。
あらかた姿は見えてきたので、後は予定通りに行動すればいいだけだ。
「気をつけてくださいね」
玄関先で見送ってくれる真琴は、海老原が撃たれて以来神経がピリピリとしているようだ。
それでも、そこから・・・・・海藤の元から逃げ出したいと思っているのではなく、あくまでも海藤の身を心配してくれているの
が不謹慎だが嬉しかった。
少なくとも、自分が死ねば、真琴だけは純粋に自分の死を悲しんでくれるだろう。
「社長」
何時の間にか物思いに沈んでいたのか、海藤は倉橋に耳元で呼ばれて顔を上げた。
「なんだ」
「お電話です。・・・・・檜山理事からですが」
「来たか」
海藤は直ぐに電話を取った。
「海藤です」
『おお、海藤。なんだ、お前、少し派手に動いてるみたいだな』
まだ60にはなっていないはずの檜山の声は若々しい。
しかし、口調は冗談めかしているものの、その言葉の端々に見える棘は鋭かった。
海藤は慇懃無礼にならないように、可能な限り声の調子に気を遣った。
「何とか一生懸命しているだけです。藤永会長は強敵ですから」
「・・・・・」
檜山が実質的に推しているのは木佐貫だと知った上で、海藤は表向きの推薦人である藤永を持ち上げた。
あまり面白くないだろう檜山は黙ったままだが、ここで激昂してしまえば木佐貫との関係が分かってしまうと思ってか気配は
抑えている。
木佐貫の妻が檜山の姉の娘・・・・・姪だと知っている者はあまりいないだろう。檜山の両親は離婚していて、姉は母方
に引き取られていたし、結婚して苗字も変わっている。
ただ、檜山は想像していなければならなかった。海藤の後見人は大東組総本部長の本宮だという事を。そして、海藤
の伯父である菱沼も、かつては大東組に近いところに立っていたことを。
檜山と木佐貫の事情を海藤が知っている可能性はかなり高かったことを想定していなかった檜山のミスは、ここにきてか
なり重大なものになっただろう。
『時間は取れるか?』
「時間、ですか」
『お前と腹を割って話したいことがあるんだ』
どんなに言葉を繕っても結局は同じことだと思ったのか、檜山は割合はっきりとそう言って来た。
海藤としてもこの言葉を檜山から言わせたかったので直ぐに受けると、今夜時間と場所を早急に決めて連絡すると電話
は切れた。
「想定通りですね」
「分かりやすい人だからな」
「じゃあ、今夜私はマコちゃんと夕飯食べましょうか」
「頼む」
出来るだけ真琴を1人にしたくないので、綾辻の申し出は直ぐに受けた。
「倉橋は、悪いが付き合ってくれるか」
「はい」
今夜の予定が決まると、海藤は再び立ち上がって自分の机に向かう。
何時になるかは分からないが、今夜の為には出来るだけ仕事を早く片付けておかなければならないし、真琴にも電話を
してやりたいと思う。
(後4日・・・・・)
終わりは見えてきた。
![]()
![]()