大力の渦流
5
「大変ありがたいお申し出ですが、生憎この後所用がありまして」
「何か大切な方と?」
わざわざここまで出向いてきた自分達をこのまま追い返すつもりなのかという思いそのままの大家の眼光にも動じず、海
藤は淡々とした口調で言った。
「伯父と約束がありますので」
「伯父・・・・・菱沼会長?」
大家ぐらいの歳の人間には菱沼の存在は強烈に印象に残っているのだろう。
先代から引き継いだ組をたちまち急成長させ、あっという間に本体の大東組の中でも発言力を持つようになったカリスマ
的な存在。
選挙がある毎に名前が挙がるものの、本人の辞退でとうとう役員にはならなかった。それでもかなりの信奉者を持って
いた菱沼。
一瞬、もしかしたら大家もその1人かとも思ったが、その目の中に表れた光は羨望や懐かしさを含むものではなかった。
「・・・・・そうですか、菱沼会長と」
「元、会長です」
「ああ、失礼」
口では謝るものの、少しも悪いと思っているようには見えないその態度に、海藤の後ろに控えていた倉橋も僅かに眉を
顰める。
「では、ここで失礼ですが」
「まあ、突然きた私共が運が無いということですか」
「・・・・・」
(卑屈な)
「理佳」
「え・・・・・」
菱沼の名前が出てあっさりと諦めた父親とは違い、娘の方はまだ海藤に未練があるようだった。
「あの、また改めて来てもいいですか?」
「・・・・・大家会長がどう思われるか」
「私はぜひ親密なお付き合いをさせてもらいたいですよ」
「・・・・・選挙中は時間が取れないと思いますので。車で来られましたか?」
「え、ええ、外に待たせてありますが」
「それでは玄関までは見送らせてもらいましょう」
そこできっぱりと会話を断ち切った海藤は、そのまま表に向かって歩き始める。
その取り付く隙もない海藤に大家が舌打ちをしたのを、後ろにいた倉橋は見逃さなかった。
海藤が予約を入れたのは赤坂の鉄板焼きの店だった。
真琴も2、3回連れて来てもらったが、初めて目の前で伊勢海老を丸ごと1匹焼かれた時、あまりの驚きと美味しさに言
葉も出ないくらいだった。
あまり味に肥えるようになったら駄目だとは思いながら、それでも店名を言われると頷いてしまう所の一つだ。
「遅れまして」
何時というはっきりした約束はしていなかったようだが、それでも海藤と倉橋が来るのを待っていた3人の目の前にはまだ
料理は並んでいない。
その間、摘みもないままにワインのボトルを半分空けた菱沼と綾辻は、待ちかねたという風に顔を上げた。
「遅いぞ、貴士。もうとっくに始めちゃってるぞ」
「すみません」
海藤は苦笑しながら言うと、そのまま真琴の隣に腰を下ろし、軽く髪を撫でた。
「待たせた」
「いいえ」
海藤のその一言がくすぐったくて、真琴は思わず頬を緩めてしまう。
その一連の動作を見ていた菱沼が大げさに溜め息を付いた。
「あんまりラブラブなとこを見せるな、貴士。1人身には酷だろう」
「涼子さんがいるじゃないですか」
「傍にはいないだろ?なあ、ユウ」
「さあ、ねえ、克己」
「・・・・・」
綾辻に対して全くリアクションをしない倉橋を見て、菱沼は声を出して笑った。
「ユウは倉橋には弱いね」
「大変そうだねえ」
気遣うというよりは面白そうだという響きの言葉に、海藤は菱沼らしいと思った。
本当に大変な時はさりげなく手を貸してくれる菱沼だが、それ以外では感心してしまうほどに第三者的な態度に徹して
いる。
自分1人で世の中を渡ってきたというつもりはない海藤だが、それでもあからさまな庇護を受けるほどには子供でもないつ
もりなので、菱沼のこの距離感はとてもありがたいと思っていた。
「そうでもないです」
「本宮は余計なことをしたかな?」
「・・・・・名前が挙がるだけありがたいと思ってますよ。それに、あの人には世話になってますし、出来るだけのことはするつ
もりです」
「本音は?」
続けて問い掛ける菱沼の目は笑っている。
海藤はふっと唇を緩めた。
「用意された権力には興味がないです」
「なるほど」
一瞬だけ身内に戻ったように本音を言った海藤に菱沼は頷いた。
自分の跡を継いだ海藤がどんな苦労をしたか、自身も親の跡を継いだ菱沼には良く分かるのだろう。
道筋が作られた綺麗な道には、自分で作っていないだけにどこに落とし穴があるとも分からず、常に緊張を強いられてし
まうものだった。
どんな功績も、名前があるからと言われれば甲斐もないが、それを乗り越えるほどの強い自我と向上心がなければ一つ
の会派を背負うことなどとても出来ないだろう。
「まあ、直ぐ終わる」
「・・・・・ええ」
自分達の会話の意味が分かっていない真琴は、どこか不安そうな顔をして海藤と菱沼の顔を交互に見つめている。
それに、海藤は静かに言った。
「今夜、色々話そう」
「・・・・・は、はい」
「なんだ、マコちゃんにまだ話してないのか?お前は言葉が足りない」
「・・・・・」
その通りなので口ごたえも出来ずにいると、菱沼の口撃は今度は綾辻に向けられた。
「お前も藤永の所に行ったそうだな」
「御、御前、こんなとこで言わなくっても〜」
珍しく焦ったように綾辻は菱沼の口を止めようとしたが、それには一切頓着せずに菱沼は続けて言った。
「あいつがまだお前を欲しがってるのは知ってるんだろう?鴨が葱背負って行ってどうする」
「ちゃんと帰って来ましたよ」
「昔のあいつなら両足切断しても帰さなかっただろうがな」
「マコちゃんが怖がりますって」
「マコちゃん、例えだよ、例え」
「は、はあ」
「・・・・・」
キュッと海藤のスーツを掴んだ真琴は強張った笑みを浮かべたが、海藤は内心更なる懸念が生まれていることに眉を顰
めていた。
昔から藤永が綾辻を買っていたことは知っているし、そもそも海藤が菱沼から綾辻と引き合わされる前から2人は知り合
いだったらしい。
その頃の2人の関係を海藤は良くは知らない。しかし、会合で会うたびに冗談交じりとはいえ綾辻の引き抜きを打診して
くる藤永に、ある種の本気を感じたのも本当だ。
(何か・・・・・あったんだろうか・・・・・)
他人の私生活を覗く趣味がない海藤と、なぜか過去のことは口にしない綾辻。
だからなのか、20歳前半までの綾辻の過去は、海藤にも全く分からないものだった。
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