気になる電話があってから3日。
秘書修行の忙しさに、いずみはそのことを忘れかけていた。
 「松原君、これを速達で頼める?」
 「はい」
 「ついでに、お茶菓子も」
 「いいですよ」
 どちらかといえばそちらの方が主目的な先輩に笑って頷くと、いずみは手紙を総務ではなく直接郵便局に持っていく
ことにした。
どんなに忙しくても3時のお茶の時間は取っている女性秘書達は、それぞれが日替わりのようにお茶菓子を用意して
いる。
それは有名店のケーキだったり、駄菓子屋で売っているような懐かしいスナック菓子だったり様々だが、いい気分転換
になるのは確かで、いずみも何時もご馳走になっていた。
(たまには俺が何か買おうかな)
 何がいいだろうと考えながらエレベーターに向かうと、丁度ドアが開いて二人の女性が降りてきた。
1人は会社の受付の社員だが、もう1人は30歳後半の、色っぽい美人だった。
 「あ、松原さん」
 「お客様ですか?」
 「ええ、専務に」
 「じゃあ、お、私がご案内します」
 「お願いします。橘様、ここからは松原がご案内しますので」
 受付の社員から引継ぎ、いずみが専務室に向かって歩き始めると、後ろを歩いている橘が声を掛けてきた。
 「少し話してもいいかしら?」
 「あ、はい、なんでしょうか?」
艶やかな橘の微笑に、いずみはカッと赤くなってしまった。社内でも綺麗な女性は多いのだが、こんなにも色っぽい雰
囲気を感じたことがない。
(お、大人って感じ・・・・・)
 初々しいいずみの態度に笑うと、橘は少し声を落として言った。
 「北沢専務、婚約なさたって本当なのかしら?」
 「え?」
 「噂は随分聞くんだけど、お相手がどなたなのかさっぱり分からないの。社内の方はご存知なんでしょう?」
同性に聞くより、いずみの方が口を割りやすいと思ったのだろう。
 しかし、いずみもまさかそれが自分だと言えるはずもなく、困ったように頭を下げるしかなかった。
 「申し訳ありません。私はなにも・・・・・」
 「・・・・・そう」
それが本当は知っていて言わないのか、それとも本当に知らないのか、どちらにとったのか、橘は軽くいずみの腕を叩い
た。
 「ごめんなさい。あなたが言えるはずがないわね」
 「・・・・・」
 「あまりにもつれないから、少し気になっただけなの。彼が選んだのはどんな人なのか」
 「あの・・・・・」
 「ふふ、これは二人だけの秘密ね?」
 慧と特別な間柄だったと、さすがにいずみも分かった。
(あの電話の人と違う・・・・・)
会社に直接来るということは、橘はそれなりの地位にいる人間なのだろう。
(2人の人と同時に・・・・・?)
 胸の奥がモヤモヤする。
それからいずみは黙ったまま専務室の前まで来ると、一瞬ためらった後ドアをノックした。
受付から連絡があったのか、ドアは直ぐに中から開けられた。
 「松原君?」
ドアを開けた尾嶋は、そこに立っているいずみを見て少し目を見張った。
 「・・・・・お客様をお連れしました」
 「君が?」
 「・・・・・はい」
いずみが促すと、橘が計算されつくした微笑を浮かべたまま尾嶋を見上げた。
 「お久しぶり、尾嶋さん。やっと時間を作ってくれたけど、待ちくたびれて歳とっちゃったわ」
 「相変わらずお美しいままですよ、橘様。どうぞ、中へ」
 橘を招き入れた尾嶋はそのままドアを閉めずに、硬い表情のまま立っているいずみに向かって言った。
 「この後、少し時間ありますか?」
 「・・・・・すみません、先輩から頼まれ事をしているので」
 「そうですか」
 「失礼します」
情けなかったが、いずみはその場から逃げ出すことしか出来なかった。