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終業時間から一時間程経った頃、いずみは重い足取りで退社した。
『その態度では他の人間に迷惑掛けるだけです』
午後から全く役に立たなかったいずみにそう言うと、尾嶋は退社することを命じた。
いずみ自身反論するだけの元気もなく、まだ残っている秘書課の先輩達に深々と頭を下げて出てきたのだ。
(俺・・・・・ショックだったのかな・・・・・)
慧ほどの男が付き合っている女性がいないとは思わなかったし、自分のことを許婚と言っているのも単にからかってい
るだけだと思っていた。
しかし、自分で思っていたよりもいずみは慧のことを特別に思っていたようで、付き合っている複数の女性の影を感じて
確かにショックを受けている。
(俺・・・・・どうなるんだろ・・・・・)
特別優秀でもない自分がエリート揃いの秘書課に移ったのは、慧の酔狂な『許婚』という言葉のせいだ。
どういう過程からか、いずみ自身今だ分かっていなかったが、慧の言葉を尾嶋が何とか解釈をして、その結果が慧付
きの秘書ということなのだろう。
しかし、その秘書としても全く役に立たなければ、許婚でもないいずみのいる意味が全くない。
「はあ〜」
(どうしよ・・・・・元の部署に戻してくれって頼もうかなあ・・・・・)
とぼとぼと地下鉄の駅を目指して歩いていたいずみは、急に鳴り響いたクラクションの音に思わず足を止めた。
「誰だよ、びっくりさせ・・・・・」
急ブレーキを掛けていずみのすぐ傍に止まった高級国産車レクサス。外車より性能が良くて乗りやすいからと言ってい
た男を知っている。
(まさか・・・・・)
降りてきた人物は、今いずみの思考の中心となっていた男だった。
「専務・・・・・」
「間に合った」
何時になく慌てたような様子の慧は、呆然と突っ立っているいずみの姿に安堵の溜め息を付いた。
「電話してる間に帰ったって聞いたから・・・・・ここで捕まえられて良かった」
「今日は、会食の予定があったはずじゃ・・・・・」
「キャンセルした。ほら、乗って」
「乗ってって・・・・・?」
「私と君とは会話が全然足りない。私は君に話したいことがあるし、君も私に聞きたいことがあるだろう?」
「そ、そんなこと、ないです」
「許婚の事、知りたくない?」
からかうような言葉に、いずみは思わずムッとして叫んだ。
「それ!その、許婚って言うの、止めてくれませんかっ?冗談でもタチが悪過ぎます!」
「・・・・・冗談じゃない」
「嘘!」
「だから、その事もきちんと話したい。付いてきてくれないか?」
「・・・・・」
「これは専務命令だ」
「・・・・・ずるい」
いずみは俯いた。
素直に頷けないいずみの為に、慧はこんな言い方をしたのだろう。
ずるいのは自分の方だと、いずみはどうしようもない子供な自分が情けなかった。
慧が連れてきたのは閑静な高級住宅街の一角にあるマンション、自分の自宅だった。
最上階のペントハウスで、この階には慧の部屋しかない。
誰の目も気にしないその贅沢な造りに、一般庶民であるいずみはポカンと口を開けて見るしかなかった。
「どうした?」
「ご・・・・・豪華、ですね」
「そうか?オーダーした時、出来るだけシンプルにって注文したんだが」
「・・・・・」
(オーダーメイドなんだ・・・・・桁違い)
自分とのあまりの違いに愕然とするが、いずみは精一杯足を踏ん張って顔を上げた。
「話って、何ですか?」
酒の用意をしようとしていた慧は、直球で切り出したいずみに手を止めて振り向いた。
酒の力を借りようとした自分よりもよほど男前ないずみが眩しくて、慧も遠回しではなく直ぐに用件を切り出そうと、ま
ずは深々と頭を下げた。
「先に謝らせてくれ。私のいい加減な生活のせいで、いずみに何度も嫌な思いをさせた」
「いい加減て、あの・・・・・お付き合いされてる・・・・・」
「誓って言うが、今まで私はまともに恋人といえる相手を持ったことはない。ほとんどが遊びで・・・・・割り切った身体だ
けの付き合いだった」
「!」
いずみの顔が一瞬嫌悪感で歪むのを見て、慧は猛烈に今までの自分の行いを反省した。
「身体を欲しいと思った相手は何人もいた。だが、身体よりも先に心が欲しいと思ったのは、いずみ、お前が初めて
なんだ」
「嘘だ!」
直ぐに頷ける言葉ではなく、いずみは反射的に否定した。
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