慧ほどの男が自分のような平凡な、何より男という事実だけでも、選ばれるはずがなかった。
打ち消されるほど惨めで、自然といずみの目には涙が溜まる。
 「お、俺、帰ってもいいですか」
泣き顔を見られたくなくて顔を背けるが、その声は情けないほど震えていた。
 「そ、それ、それから、部署も戻して下さい。俺には、秘書なんて、やっぱり・・・・・無理です」
 「却下」
 「どうして!」
 これ以上からかうなときつい視線を向けると、そこには少しも余裕のない真剣な顔をした慧がいた。
 「答えは一つ。私が君を好きだから」
 「専務・・・・・」
 「確かに始めは面白半分だった。私だって男と付き合ったことはなかったし、恋愛対象になるとは全く思わなかった」
 「や、やっぱり・・・・・」
 「初めて会った時、面白い子だと思った。傍に置いていれば退屈しないだろうと、何の期待もなく秘書に就けた。始
めは確かにそれだけだったのに・・・・・参ったのは私の方だ。女を抱こうと思わないほど、お前のことが好きになるなんて・
・・・・」
 「う・・・・・」
 「嘘とか言うなよ。この歳で誰かに面と向かって好きだとか言うの、結構恥ずかしいものなんだぞ」
その照れた表情は、何時も会社で見る切れ者の男のものではなかった。まるで中学生の少年のような表情に、呆然
と見開いたいずみの目から溜まった涙が零れ落ちる。
それを見た慧は、思わずいずみを抱きしめた。
 「!」
 「・・・・・出来る」
 「・・・・・え?」
 柔らかくもなく、豊満な胸もない、確かに自分と同じ男の身体だ。
しかし、それでもなお慧は自分の下半身が反応するのが分かった。女でなくても構わないと、いずみだからこそ抱きた
いと、身体の反応でも実感した。
(我ながら即物的だがな)
 「専務?」
 不安そうに名前を呼ぶいずみをもう一度抱きしめると、慧はそっと身体を離してその顔を覗き込んだ。
 「じいさんに感謝だ」
 「じいさん?」
 「私の祖父、香西物産の会長だ」
 「会長?ど、どうして会長の名前が出てくるんですか?」
 「いずみを私の許婚に決めたのがじいさんだからだよ」
 「え〜っ?」
 会ったこともない、それこそ天上人である会社の会長が自分を知っているはずないと思ったが、慧は驚くいずみを楽
しそうに見つめている。
 「帰らないで、私の話を聞いてくれるね?」
 「う・・・・・あ・・・・・はい」
ここで帰ったら中途半端に気になるだけなので、いずみは困惑したように眉を下げたまま頷いた。



 ソファに座らせられ、暖かいコーヒーを出される。一口飲むと、微かにだが酒の香りがした。
 「落ち着いた?」
涙はとっくに止まり、今はただ疑問だけが頭の中に渦巻いている。いずみの急かす様な視線に苦笑しながら、慧は隣
に腰を下ろして話し始めた。
 「俺のじいさんは、結構な立場にありながら昔気質の人でね。1人で気軽にバスや電車に乗って出かけるし、危ない
人達とも平気で遊ぶような人なんだ。そんなふうだから、何回か危ない目にも遭ったらしいんだけど・・・・・覚えてないん
だろうな、いずみは二度、じいさんを助けてくれたんだよ」
 「え?」
全く思い浮かばないいずみは、首を横に振った。
 「俺、今まで誰かを助けたことなんてないです。そりゃ、たまに道案内したり、席を譲ったりすることはあるけど、助ける
なんて大げさなこと・・・・・」
 「いずみにとっては当たり前のことだからだ。高校生の頃、道で倒れた年寄りを助けなかった?」
 「高校生の頃?・・・・・分かりません」
 「だろうなあ。その日、じいさん屋台で見知らぬ男と意気投合して、何を思ったのか着ていた服を交換したらしいんだ
よ。多分私の父や部下達をからかう為なんだろうけど、その服っていうのが薄汚れた作業着で、一見ホームレスのよう
にも見える格好だったらしくて・・・・・」
 「あ!」
 唐突にいずみは思い出した。
 「救急車呼んだおじいさん?!」
 「正解」
 「あのおじいさんが・・・・・専務のおじいさん?この会社の会長って・・・・・信じられない」
 高校二年生の夏休み、バイトの帰りに通り掛かった街中で、いずみは道路に蹲る人を見つけた。薄汚い作業着姿
のその人物は、胸を押さえて立ち上がろうとし、何度も膝を折っていた。
繁華街の交差点の近くで人通りは多かったが、誰もがちらりと視線を向けるだけで立ち止まろうとはしなかった・・・・・
いずみ以外は。
 「でも、そんなに感謝されることじゃ・・・・・」
携帯電話を持っていなかったいずみは近くの店で電話を借りて救急車を呼んだ。病院まで付き添い、連絡してくれと
頼まれた相手に電話をし、その人物が駆けつけてくるまで待っていた。
(確かにあの時来た人達って・・・・・)
作業服姿の老人とは全く結びつかない、きちんとした背広姿の男達だった。
軽い心筋梗塞だったと、硬く手を握り締められて感謝された覚えがある。
 「自分を助けてくれた子に会いたいって、じいさんいずみを探し出したらしい」