マンションの地下駐車場に車を止めた慧は、チラッと助手席に座るいずみに視線を向けた。
(・・・・・どうするかな)
マンションに誘ったのは半分、いや、ほとんど無理だと思った上での言葉だった。
今まで何度も誘いを掛けて(本気に取ってもらえない部分もあったかもしれないが)、どうしても最後までは許してくれ
なかったいずみだ。一度、挿入直前といったこともあり、男同士が・・・・・というような嫌悪感は無いだろうとは思うが、ど
うしても立場の差というものは消しきれないものらしい。
(上司と部下の恋愛なんて、そこかしこで転がっていそうなんだがな)
 今の時代、それほど身持ちを固くしなくてもいいとは思うのだが、そんないずみを好意的に捕らえていたのも確かに自
分だった。嫌われることが怖くて、逃げられるのが怖くて、結果的に本気で口説こうとするよりもどこか冗談に交えたもの
になってしまった。
だが、もうそろそろ一歩踏み出さなければならない。
(このままじゃ、また同じようなことがあるかもしれないしな)
 「いずみ」
 「・・・・・っ、は、はい」
 「どうする?」
 ここまできても、先ずいずみの意思を確かめようとする自分の気弱さが情けないが、慧は自分はシートベルトを外し
ながら更に続けた。
 「どうしても気が進まないなら、送ってやることは出来ないがタクシーを・・・・・」
 「降ります」
 「いずみ」
 「ちゃんと、降ります」
自分に言い聞かせるように何度も同じ言葉を繰り返したいずみは、慧よりも先に車のドアを開けた。



 自分の心に正直に。
それがいずみの出した結論だ。いや、今この瞬間でも気持ちが揺れているのは事実だったが、それでも今日、あの見
合い相手に笑いかけていた慧の笑顔に胸が痛んでしまったのは事実だったし、この先も見るかもしれないあの光景を
そのまま受け入れることは出来ない。
 「何か飲む?」
 部屋に入った慧は、少し困ったような表情で言った。
 「あ、俺が・・・・・」
 「コーヒーくらいは入れられる。座っていなさい」
 「は、はい」
(・・・・・もしかして、間違ってたり・・・・・して?)
何時も余裕がある慧のそんな表情に、いずみは萎みそうになる決心を何とか奮い立たせていた。
もしかしたら今回マンションに誘ってくれたことは冗談で、それを本気にして付いてきてしまったいずみをどうしようか困っ
ている可能性もあるが、そんなことを今更言ってもらっても困る。
自分で考えるように言ってくれた尾嶋の後押しに答える為にも、いずみはうんっと勢いつけて慧を振り返った。
 「あのっ!!」
 「え?あ、どうした?」
 いきなり大声を出したいずみを、慧は驚いたように見つめている。
 「か、貸してもらってもいいですかっ?」
 「貸すって、何?」
 「お、お湯です!」
 「お湯?」
そこまで言い切ったいずみは顔を真っ赤にしてしまい、俯いて慧の返事を待った。
・・・・・しかし、何時まで待っても慧の返事は返ってこない。
(ず、ずうずうしかった?)
しかし、汗もかいてて、落ち着かなくて、このままというのも非常に困る。
いずみは慧がどんな表情をしているのか考えると怖かったが、それでも何時までもこうしていてはいられないと、ゆっくりと
顔を上げてみた。
 「せ、専務?」
慧の表情は、いずみが危惧していたような困った表情ではなく、むしろ呆気にとられたような驚きの顔だった。



 「お、お湯です!」
 突然立ち上がったいずみが何を言うと思いきや、いきなりお湯と言われて慧ははあ?と困惑した。
(湯が借りたい?)
茶を入れている最中にそう言われた慧は、自分の手元のカップといずみの顔を何度も交互に見てしまった。
いずみの顔はそう言った瞬間真っ赤になって、慧の視線から逃れるように俯いてしまっているが、慧からすれば湯を借り
ることがなぜそんなに恥ずかしいのか分からなかった。
(俺は、どう反応すればいいんだ?)
 勝手に使っていいと言えばいいのかと首を傾げそうになった慧は、ようやく顔を上げたいずみと目が合った。
 「せ、専務?」
 「・・・・・」
真っ赤な顔をしたまま、それでも慧の答えをじっと待っているいずみに、何かを答えなくてはという気分になる。
慧はともかく最初のいずみの要望に沿うようにと、少し身体をずらしてキッチンを指差した。
 「好きに使いなさい」
 「・・・・・え?」
 「え?」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・」
 「・・・・・違った?」
 ようやく、慧は自分の答えが間違っていたことに気付いた。いや、もしかしていずみの言葉を聞き間違えていたのかも
しれない。
(湯って聞こえたんだが・・・・・)
 「いずみ、今」
もう一度聞き返そうとした慧に向かって、いずみはいきなり叫んだ。
 「お風呂貸してください!!」



 勇気を出して言った言葉が結局慧には通じていなかったのが分かって落ち込みそうになったいずみだが、ここで引き
下がっていてはまた同じことの繰り返しだと思った。
(拒否されてないんだから!)
慧の表情からそう感じたいずみは、今度はもっと直接的な言葉を叫んだ。
 「お風呂貸してください!!」
 「・・・・・え?」
 「あのっ、お風呂っ、俺、このままじゃ、そのっ」
 「・・・・・いずみ」
 「あ、新しいパンツは結構ですからっ!」
 着替えたい為に風呂に入りたいわけではないとこれで伝わるだろうか・・・・・自分の精一杯のOKの返事を慧はどう
思うだろうか・・・・・。
やっぱり怖いと再び俯きかけたいずみは、いきなり強く抱き締められた。