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「あー・・・・・えっと・・・・・ハロー?」
「・・・・・っ」
すぐ近くで太朗の言葉を聞いていた綾辻は、思わず口の中に含んでいた水割りを噴き出しそうになった。
(さ、さすがタロ君〜っ)
アレッシオが外国人だということは分かっているらしいが、アメリカ人とイタリア人を間違えているのではないか。
「・・・・・タ〜ロ、それは挨拶か?」
これがむさ苦しい男なら、アレッシオも即座に席を立ったかもしれないが、相手が太朗ということで文句を言うことも出来ないよう
だ。それに、《HELLO》という響きはかなりメジャーで、アレッシオのような世界を相手に動いている男が分からないということは無
いだろう。
「友春さん、間違えてる?」
「太朗君、ケイはイタリア人だから・・・・・」
あれっと首をかしげている太朗は本当に天然だ。
これだけ日本語で話しているアレッシオに対し、挨拶も日本語で十分なはずが、一応気遣って英語を話すというのが可愛いで
はないか。
見ていると、アレッシオも複雑な表情をしているが不機嫌になっているようには見えない。やはり子供というのは最強の存在の
ようだ。
「ケイ、俺間違ってた?」
「・・・・・自分で考えろ」
「分からないから聞いてるのに〜」
ケチだよねと隣にいる友春に向かって言う太朗に、律儀にそうでもないんだよと答える友春は、少し会わない間に随分と心境の
変化があったらしい。
(やあね〜、顔が笑ってる)
正しくは目が笑っているのだが、こんなアレッシオを見るのは本当に初めてかもしれない。
あれだけベクトルの方向が違った2人がここまで変わるなんてねと思いながら、綾辻はそろそろ自分も席の移動をしようと立ち上
がった。
江坂は隣に座る気配に顔を上げる。そこには倉橋が座っていた。
「新しいのをお持ちしましょうか?」
ふと視線を落とすと、グラスの中の酒はほとんど残っていない。自制をしていたつもりだったが、静を彼の友人達に取られてしまっ
たので、自然とペースが上がっていたようだ。
「頼む」
そう答えると直ぐに倉橋はグラスを受け取って立ち上がり、間を置くことなく新しいものを持って戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
自然に礼を言うと、倉橋は少しだけ口元を緩めていいえと答える。
控えめな彼はこちらから話さなければなかなか世間話もしないことを知っていたし、最近の仕事状況を把握しておこうかと江坂は
身体ごと倉橋に向き直った。
「本部の仕事はどうだ?」
「難しいものもありますが、その分やり甲斐がありますので」
「こちらでは海藤の評判ももちろんだが、お前の手際のよさも褒められているぞ」
「・・・・・恐れ入ります」
海藤が新しく理事になって約8ヶ月。
今までに海藤にも様々な大東組本部の仕事が回されたが、男はそつなくそれを処理して、さすが有能だと噂されている。
それには海藤自身の力ももちろんだが、その命を受けて実際に動く部下の手腕も問われていて、実質本部とやり取りしている
倉橋の完璧な、そして素早い行動はかなり評価をされていた。
「私は、海藤会長の手助けをしているだけですので。私を褒めていただいているとすれば、それは海藤会長の指導の賜物だと思
います」
「・・・・・そうか」
江坂は目を細めた。
ここまで思ってくれる部下がいる海藤は本当に心強いだろう。
目の前に広がっている光景は初めてのものではないが、それでも組織の要人を預かっている立場としては緊張感の方が大き
い。
(楓の奴・・・・・自分から面倒事を引きこみやがる)
江坂に海藤に上杉。それに綾辻などは雅行の目指す経済ヤクザの中でもかなり高い能力の持ち主たちばかりだ。
そんな彼らと会話をするのは勉強にもなるし、1人1人が相手ならばここまで気が重くはならないのだが、いかんせん一度に会うに
はあまりにも濃い者達ばかりだ。
「・・・・・」
雅行は一度口の中で息をつくと、ビール瓶を持って上杉の傍に向かった。
「上杉会長」
「ああ、今日は申し訳ないな」
上杉は直ぐにニッと笑みを浮かべて言う。
「だが、日向の姫さんとうちの子犬が揃って頼み込んできたんだ、断れるはず無いだろう?」
「・・・・・本当に、うちの弟が迷惑を掛けまして」
とても可愛く、本当は礼儀もちゃんとわきまえている弟だが、こんな風に時折暴走してしまうのは・・・・・止められなかった。
今回はそこに、楓の大親友であり、上杉の恋人の太朗も絡んでは抵抗できる者などいるはずが無い。
「なあに、年に何回か、こんなふうに何の肩書きも気にせずに飲むのも面白い」
「そうですね」
上杉は雅行の返答に新しいグラスを差し出す。雅行がそれにビールを注ぐと、お前も飲めと言われてありがたくその酌を受けるこ
とにした。
「それで、それで?」
「え、えっと・・・・・」
真琴と静に詰め寄られ、暁生は全身が熱くなってきた気がする。
(お、お酒飲んで無いのにっ)
以前、まだ楢崎との関係に距離を感じていた時、友人になったばかりの彼らにも心配を掛けてしまった。
だからこそ、今は上手くいっているのだということを伝えたかったのだが、言葉の中についノロケが入ってしまったようだ。
今更誤魔化すことは出来ず、かといって赤裸々な話も出来なくて、暁生は困り、視線を揺らした。
「あ、あの・・・・・」
「・・・・・」
「・・・・・」
真琴も静も、じっと自分の顔を見ている。
「・・・・・」
そんな2人を暁生は何とか見つめ返すが、やはり言葉は出てこない。
「・・・・・ねえ」
「うん」
やがて、目の前の2人が顔を見合わせた。
「暁生君が幸せならいいんじゃない?」
「そーだよね。ごめんね、なんか無理に聞こうとしちゃって」
真琴がほにゃっと柔らかい笑みを向けてそう言ってくれる。
「お、俺の方こそ・・・・・っ」
「恋人同士の間のことは、2人だけの秘密にするものだしね」
綺麗な笑みを浮かべた静に、確かにそうかなと言いながら暁生は照れ臭くなって笑ってしまった。
「・・・・・」
秋月は部屋から出て縁側を臨む廊下で煙草を吸っていた。
別に、居心地が悪くて部屋を抜け出したわけではない。反対に、居心地がいいから困っているのだ。
(大東組の層の厚さが分かるな・・・・・)
秋月の属する弐織組にとっては目の上のたんこぶという表現をするが、実際には大東組との力の差はかなり大きい。
組織を立ち上げた年月もあるが、所属する組の長達の力量の差がかなり影響しているのも事実だ。
秋月自身は、自分が無能だとは思わない。
ただ、組織の人間が皆が皆、有能だとはとても言いきれず、今も利権を争う醜い内部抗争が起こっていた。
「・・・・・大東組に知られたらどうする」
それこそ、今の内に潰してしまおうと、戦争を引き起こされてしまうかもしれない。
「私達に知られたらどうなるんですか?」
「・・・・・っ」
秋月は内心の動揺を辛うじて押さえて視線を向けた。
(気がつかなかった・・・・・)
相手が気配を殺していたのか、それとも自分の方が全くの無防備だったのか。どちらにせよ厄介な相手に聞かれたのはまずい言
葉だった。
「・・・・・いつから、そこに?」
淡々とした声には動揺は表れていないが、小田切は確かに聞こえた苦々しい秋月の言葉を頭の中で考えていた。
元々、他組織の宴会に半ば引きずられるように参加している秋月には居心地の悪い雰囲気だったかもしれないが、それにしても
今の言葉は少々物騒だったように思う。
「今ですよ」
「・・・・・」
「疑っています?」
「・・・・・いや」
疑っていると言われたら、何のためにと問い返すことが出来た。しかし、秋月は明らかにこの場を何事もなかったかのように済ま
せようとしている。
小田切とて新年から事を荒立てたくは無いが、気になる言葉の裏は少々とっておきたい。
「居心地が悪いでしょう?」
「・・・・・」
「それでも、可愛い恋人の頼みは断れない?」
日和の名前を出して反応を確かめれば、さすがに秋月は眉を顰めた。
「おい」
「でも、たまには何のしがらみも取っ払ってしまうのも楽しいものでしょう?」
「・・・・・うちの組織の連中に知られないようにしなければな。俺は尻の軽い、薄情な人間じゃないつもりだ」
「本当に、そう見えますよ」
(どうやら、白状しそうに無いようだな)
それもまあ、仕方が無い。小田切はにっこりと笑って中に戻りませんかと秋月を誘った。
「静さん、彼らをここに呼んでもらえませんか」
しばらくして、静は江坂にそう言われた。わざわざ呼び寄せるのはどうしてだろうと不思議に思いながらも、友春は皆を呼んで上
座に座る江坂の元に行く。
「凌二さん、何?」
静の言葉に、江坂はにっこりと優しく笑い、おもむろに内ポケットから小さな封筒を取り出した。
(これって・・・・・)
「ポチ袋?」
ぽつりと言った真琴に、意味が分からないらしい太朗がポチ袋って何と聞いている。
「私にとって君達は子供のような年齢ですし、正月ですからね。はい、静さん」
そう言いながら差し出されたのはいわゆる・・・・・お年玉だった。
「え・・・・・俺にも?」
「お年玉っ?」
「僕にも・・・・・」
皆、江坂自らが渡してくれたお年玉袋を、目を丸くして見つめていた。それは静も同様だ。
今までもお年玉代わりだと言って様々な物を買い与えてもらった覚えはあるが、子供のころに貰ったような、こんなポチ袋に入っ
たそれを江坂から貰ったのは初めてだ。
しかし、驚きはそれだけで終わらなかった。
「じゃあ、今度は俺の所に来てもらおうか」
そう言ったのは、海藤だった。
上杉から今回の誘いを受けた時、海藤は皆を喜ばせないかと言われた。
何時も突拍子の無いことを言う人だとは思っていたが、海藤はそれを切り出されて珍しく噴き出してしまった。
(こんなに子供っぽい顔を見たのも久し振りだな)
最近は将来の目標に向かって頑張っている真琴は随分大人っぽくなっていたが、今目の前で友人達と顔を見合わせて弾んだ
声で話している様子はまるで子供だ。
「お年玉をやらないか、海藤」
「・・・・・お年玉ですか?」
「ああ。ちゃんとポチ袋に入れて・・・・・何十万も入れるような奴じゃない、子供が受け取るような額を入れたものだ。どんな顔を
すると思う?」
海藤だけではなく、上杉から江坂、秋月、伊崎、楢崎へと伝え、それは他の者にも伝染していた。
中味は一律千円。この年頃の青年達に渡すには低い金額だが、貰えたという事実だけで真琴達は大喜びしている。
「うわっ、ケイまでくれんのっ?」
「カッサーノさんって、お正月の行事知ってるんだ」
「そりゃあ、友春の恋人だもん」
「海藤さんっ」
最後の小田切からもお年玉を貰った真琴は、海藤の傍に駆け寄ってきた。
「ほらっ、見て下さい!」
中味の金額は同じだが、それを入れているポチ袋はそれぞれの性格が出ていて個性豊かだ。
海藤や江坂、伊崎に楢崎、倉橋がシンプルな物を選んでいるのに対し、上杉、アレッシオ、秋月に綾辻、そして小田切はかなり
凝った物だった。
「良かったな」
「はい!」
大切そうに鞄にしまった真琴は、ほおと大きな息をつく。
「まさか、こんな所でお年玉を貰うなんて思いもしなかった・・・・・」
なんだかくすぐったいですと言う気持ちは、海藤にもなんとなく分かった。
「・・・・・こ、これ」
「タロ?」
思わず声を上げた太朗の手元を楓が覗きこんでくる。
「5円?」
「ジローさん!」
他の者がくれたのは皆一律千円だったのに、上杉の金の招き猫型のポチ袋の中身はなんと5円玉が1つ入っているだけだった。
幼稚園児でももっと貰っているぞと睨むと、まるで悪戯が成功したかのように上杉は大きな声で笑っている。
「はははっ、いいだろ、《ゴエンがありますように》だ」
「なっ、そ、そんなのっ」
確かにそれはいい言葉だと思うが、それでも・・・・・。
(な、納得いかない!)
「ははっ、いいじゃん、タロ。このおっさんならしそうなことだし」
顔を真っ赤にする太朗は、隣にいる楓を睨んだ。
「楓!」
「タロにそんな悪戯するなんて、精神年齢も幼稚・・・・・」
上杉に負けないような大声で笑いながらポチ袋を覗いていた楓の手が、不意に止まった。
「楓」
「・・・・・おっさんっ!俺のにも5円なんでどういうことだよ!」
どうやら、楓のお年玉も5円だったらしい。憤慨し、きつい眼差しを向ける楓にも全く臆することなく、上杉はニヤニヤ笑いながらい
いだろと嘯いた。
「親友同士、差を付けないようにしただけだ」
「「千円に合わせろ!!」」
期せずして叫んだ声は見事に楓とハモる。
その瞬間、周りにいる友人達が楽しそうに笑った。
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