午後九時過ぎー



 宴会も3時間近く過ぎると、そろそろお開きの時間だった。
さすがに立てないほど酔っているという者はほとんどおらず、騒いでいた組員達もそろそろかという視線をチラチラと雅行や伊崎に向
けてきた。
組長と若頭がまだ残っている状態では、自分達が先に部屋に帰ることなど出来ないのだろう。
 「組長、そろそろ」
 まるで中間管理職のように、下の者と雅行の間を取り持っている伊崎が雅行に声を掛けた。
雅行も、ちらっと時計を見上げる。
 「もうこんな時間か。おい、そろそろお開きだぞ」
 「はいっ」
 何本かも数えることが怖いほどのビールの空ビンが部屋の隅に固まって置かれている。
まだ明日もあるというのにこのペースで飲んで大丈夫なのかと心配したのは一瞬だった。酒くらいで動けなくなるほどに情けない人
間はここにはいないと知っているからだ。
(楓さんも早く・・・・・)
 先ほどまでクルクルと組員達の間を動き回っていた楓も休ませようとその姿を捜した伊崎は、彷徨わせていた視線をある場所に
向けて唐突に止めた。
 「・・・・・」
(どうして・・・・・)
 楓は、眠っているようだった。
今朝はずいぶん早くから起き出していたし、バスの中でも旅館に着いてからもずっとはしゃいでいたので疲れたのだろうということは
十分予想がついていた。
しかし、今の状況は伊崎の予定外だ。
それは、楓が枕にしているのは男の膝で、その男というのはもちろん自分でも雅行でもなく、なんと津山だったからだ。
 「・・・・・」
 伊崎は自分の顔が歪みそうになるのを何とか抑えた。
ここで必要以上に取り乱してしまえば、自分と楓の関係を勘繰る者が出てくるかもしれないからだ。
 「・・・・・」
 「・・・・・」
黙ったまま、伊崎は津山と楓のもとに歩み寄る。
自分がその直ぐ側に膝を着いたのに、楓は一向に目を覚まそうとはしなかった。
 「急に、眠いと言われて」
 伊崎が問う前に、津山が答えた。
組の中で、おそらく一番正確に楓と自分の関係を知っている津山は、伊崎が余計なことを言う前に先手を打つように事情を説
明したのだろう。
その心遣いはありがたいとは思うが、一方で伊崎の心境はますます複雑になってしまった。
(楓さん・・・・・よほど津山に気を許しているんだな)

 楓をもっと強固に守る為、役職も無いただの組員から若頭を襲名した伊崎。
全ては楓の為だったが、組をも背負う若頭という立場は想像以上に過酷で、楓の守役は他の人間に託すより他になかった。
 その伊崎が選んだのは、一度刑務所にまで入ったことがある津山。
日向組に忠誠を誓いながら、どこか機械のように感情を全て捨てたような津山は、これ以上ないほど楓の守役にピッタリりだと思
えた。
飛びぬけた容姿を持つ楓に、いくら組員とはいえ四六時中側にいれば特別な感情を抱かないという保証はない(現に自分がい
い例だろう)。
その点、津山はとても恋愛感情というものを持っているような男だとは思えなかった。

 だが。

人の心というのは、計算だけでは進まないものだったらしい。
あれほど無感情だと思っていた津山は、いつの間にか楓に対して特別な感情を抱くようになり、伊崎以外には弱みも見せない楓
が、津山に対しても甘えるようになっていた。
 自分が傍にいられない間、確実に2人でいる時間が増えている楓と津山。
楓の想いを疑うことはないが、自分へ向けてくれる感情とはまた別の思いを津山に向けるようになる楓を見ているのは伊崎にとっ
てはかなり悔しく、嫉妬さえもしてしまうほどだった。

 今も、楓は津山の膝を枕に安心したように眠っている。
この男ならば大丈夫・・・・・そんな信頼を津山に向けているのだと、伊崎は改めて見せ付けられているような思いだった。
 「若頭」
 黙って視線を向けていた伊崎に、津山が静かに声を掛けた。
 「なんだ」
 「私は足が痺れてしまったので、楓さんを運んでもらうのを頼んでもいいですか?」
 「・・・・・」
 「いいですか?」
 「ああ」
津山は、自分達の関係を知っている。
伊崎が楓の身体をその腕に抱いていることも知っている。
自分が想う相手が自分以外の男の腕の中にいるのを見て、津山自身は何とも思わないのだろうか・・・・・伊崎は思わずそう考え
てしまった。
それは考えても仕方がないこと、いや、伊崎が楓を手放すつもりがない今、それは想像することも出来ないことだろうが。
 「・・・・・すまなかったな」
 「いいえ、役得でしたから」
 「・・・・・」
 「どうしました?」
 「お前がそんな風に言うのは珍しいと思って」
 「・・・・・」
 津山はほんの僅か笑みを漏らし、一瞬だけ楓の頬に掛かった髪をかき上げた。
 「・・・・・っ」
たった一瞬、もしかして実際に頬には触れていないのかもしれないが、伊崎はその津山の行動に、穏やかな眼差しに、普段は上
手に隠している津山の楓への想いを垣間見たような気がした。



 「楓は寝たのか?」
 「ええ、疲れていたんでしょう」
 伊崎が楓を抱き上げて雅行の側まで行くと、雅行は仕方ない奴だなと笑うと、そのまま先にたって部屋に戻る。
楓と雅行は同室なので、今日はこのまま楓とは別れることになりそうだ。

 「普段は出来ないようなエッチなことしよっか?」

 夕方、少しだけ悪戯をした大浴場の中で、頬を紅潮させながら誘うように笑っていた楓。
本人は雅行が寝入ったら伊崎の部屋に忍び込んで行くつもりだったようだが、こんなに早くダウンしてしまえば明日の朝まで起きる
ことはないだろう。
 伊崎自身、全く期待していなかった・・・・・わけではないが、今日はこうなるだろうということも予想出来ていた。
 「すまんな、重いだろう。代わるか?」
 「いいえ、私はそんなに酒も飲んでいませんから」
やんわりと断ると、雅行はそうかと言って直ぐに引き下がる。
雅行のことを考えているような風に見せかけて、その実楓の身体を渡さなかったのは伊崎の独占欲だ。
たとえ楓とは兄弟であっても、雅行の逞しい腕に抱かれる楓の姿を見たくない。津山と一緒にいた楓の姿とダブるような光景は見
たくなかった。



 部屋の中は既に片付けられていて、きちんと布団も敷いてあった。
上掛けを雅行が捲ってくれ、伊崎はそっと楓の身体を下ろす。
 「寝てると、ガキの頃と変わらんな」
 「起きていても、あまり変わりませんよ」
 「そんなことを言ってると、こいつがまた拗ねるぞ」
低く笑った雅行が、大きな手に似合わず丁寧に上掛けを掛けてやると、モゾモゾと動いた楓は直ぐに布団の中に潜り込むようにし
て丸くなる体勢になる。
(本当に、昔と変わらない)
 「すまなかったな」
 「いいえ、お休みなさい」
 「おやすみ」
 これから数時間は楓と会えない。
伊崎はその姿を目に焼き付けるようにしてしばらく見つめると、やがて丁寧に一礼して部屋から静かに出て行った。