機嫌が直った楓をベタながら観光地に案内して、再び宿に戻ってきたのは既に午後4時になろうとしていた頃だった。
この宿はゆっくりとした時間を過ごしてもらう為にと、チェックインは午後3時から、チェックアウトは午後12時という時間帯になって
いる。
今もフロントやロビーには、今日新しく客となる者達が数人賑やかに話していた。
(夏休みだからか?・・・・・若いのが多いな)
 一応高級旅館と謳っているだけに、伊崎のイメージではどうしても中年以降の客が多いと思っていたのだが、時期が時期なの
か、それとも昨今の温泉人気もあるのか、大学生くらいの客も結構いた。
伊崎自身、旅館の客層などどうでもいいのだが、彼らの視線が楓に集まるのは面白くなかった。
 「楓さん、部屋に戻りましょう」
 「待って、お茶のサービスだって」
 伊崎の心配などよそに、楓はロビーの一角で振舞われている抹茶のサービスに興味を奪われたらしい。
昨日はタイミング悪くそのサービスが終わった直後に来たらしいので、楓はそのままお茶をたてている若い男の元へと歩み寄った。
 「いい?」
 「・・・・・どうぞ」
 まだ、20代らしい若い男は、楓の顔を見て一瞬驚いたようだったが直ぐに頷いた。
畳6畳ほどもあるその場所には、先客で既に若い女連れが2人座っていたが、女達の目的はお茶ではなく、それをたてている男
の方に興味があるようで盛んに話し掛けていた。
 「あの、ここの旅館の人ですか?」
 「この後、時間があるならどこか案内してもらってもいいですか?」
 途切れることなく話す女達に、お茶をたてている男は言葉少なに対応している。
客相手に黙れとも言えないのだろうと伊崎が気の毒に思った時、
 「煩い」
きっぱりとした声がロビーに響いた。
 「お茶を味わう気持ちがないなら席を立て」
 「な、何言ってんの、この子っ」
 「聞こえなかったのか」
楓がちらっと女達を見ると、その美貌に文句を言われた女達も息をのんだ。女以上に華やかで美しく、それ以上に凛とした厳し
い眼差しを向けられ、言おうとした文句も口の中から出てこないようだ。
それに、周りの視線も自分達に向けられているのが分かると恥ずかしくなったのか、2人連れの女達はまるで逃げ出すようにロビー
から姿を消し、張り詰めていた空気がふっと溶けたような感じがした。
 「ありがとうございます」
 感謝するように頭を下げた男に、楓はすげなく言う。
 「美味い茶を入れてくれ」
 「はい」
女達が立ち去ったので、伊崎はそのまま楓の隣に腰を下ろした。
楓は色々な公式の場にも呼ばれているので、実際に習ったことはないがお茶の飲み方も正式な所作も身体で覚えている。
器を差し出され、その手順どおりにお茶を飲む姿は、まるで絵が動いているように綺麗で・・・・・何時の間にかロビーにいた者は、
客も従業員も含めて皆その姿に見惚れてしまっていた。
 「いかがでしたか?」
 楓が器を置くと、男が静かに訊ねる。
それに、楓は先程までの人形のような表情を崩して、にっこりと鮮やかに笑った。
 「美味かった」



 「なかなかいい腕だったな、あの男」
 部屋に向かう長い廊下を歩きながらそう言った楓は、なかなか返事が来ないことを不審に思って振り返った。
 「恭祐?」
 「・・・・・」
 「何怒ってるんだ?」
表面上は何時もと変わらない無表情ながら、楓にはその表情の変化は直ぐに分かった。宿に戻って来た時までは確かに上機嫌
だったのに、今の伊崎はかなり・・・・・不機嫌だ。
 「恭祐」
 「・・・・・言っても仕方がありません」
 「何だよ、その言い方」
 「あなたが悪いわけではありませんから」
 「・・・・・」
(何でこんな遠回りな言い方するかな)
 楓としては、どんな理不尽なことでもはっきり言ってもらわないと反論のしようがない。
楓はむっと口を尖らせた。



 「どうした、機嫌は直らなかったのか?」
 雅行は荒々しく扉を開けて部屋に戻ってきた楓を見て苦笑した。
多分伊崎のことだ、きっと楓は上機嫌になって帰ってくると思っていたのに、その表情は朝と変わらず険しく、何より楓の後から伊
崎の姿は現れない。
(また喧嘩をしたのか?)
いや、これは喧嘩ではなく、楓が勝手に拗ねているだけなのだろうが。
 「楓」
 「兄さん、恭祐はどうしてああなんだろ」
 「ああ?」
 「何か考えているのは顔を見れば分かるのに、口を開けば何でもないって言うんだ。俺、そういうの一番嫌い!」
 「・・・・・」
(あいつの顔色で判断出来るなんてお前くらいだぞ)
 もう10年以上も伊崎と一緒にいる雅行も、ポーカーフェイスになってしまった伊崎の表情から気持ちを読み取るのは容易では
なかった。
元々、大学院にまで進んでいたくらい頭の良い男の考えることは良く分からないが、きっと楓は・・・・・そんな伊崎の素を知る唯一
の人間なのかもしれない。
それほど強く結びついていることが良いことなのか悪いことなのか、雅行はまだ答えを出すのは早いように思っていた。
 「楓、明日には帰るんだぞ。そんな顔をしたまま宴会に出たら、皆心配して気持ちよく酔えない」
 「だって・・・・・!」
 「お前も大人になったんだろ?お前の方から折れてやれ」
 「・・・・・」
 「楓」
 雅行がぐしゃっと髪を撫でると、楓はじっと上目遣いの視線を向けてくる。
それでも嫌だと言わないのが可愛いと、雅行の目は更に優しく細められた。



 ぞろぞろと宴会場に足を運ぶ組員達を見ながら、伊崎は楓をどう宥めようかと考えていた。
口先だけで謝るのは簡単だが、楓にはもっと自覚をして欲しいとも思っているので、だだ謝るという方法は取りたくはない。
しかし、楓が不機嫌だと組員達の空気も暗く落ち込んでしまうので、表面上だけでもとり繕わなければならないだろう。
(全く、自分に無頓着な人だから)
自分の美貌を自覚しているはずなのに、それを取り巻く周りの状況を過小に考えてしまっている。特に、伊崎がどれだけ心配し、
嫉妬もするか、楓は実際の何分の一しか分かっていないだろう。
 「組長っ」
 「・・・・・」
 そんなことを考えていると、雅行が楓を連れて現れた。
 「組長」
 「今日はご苦労だったな」
 「・・・・・いえ」
雅行の労いの言葉に言葉少なに頷いた伊崎は、そのまま楓に視線を向けた。
てっきり、そのまま顔を逸らされると思ったのだが・・・・・。
 「さっきはごめんな、恭祐」
 「楓・・・・・さん?」
 「些細なことで腹を立てた俺が子供っぽかった」
 「・・・・・」
(どういう・・・・・)
思い掛けない楓の反応に内心途惑った伊崎は、そのまま訊ねるように雅行を見る。
 「・・・・・」
伊崎のその視線に、雅行は視線だけで笑い、そして、既に席についている組員達に向かって大声で言った。
 「皆、今日は最後の夜だ!心置きなく飲めよ!」
 「はいっ」
 「みんなっ、楽しむぞ!」
 「はいっ!」
雅行に続いて言った楓の言葉に更に大きく返事をすると、日向組の二日目の宴会は思い掛けなくスムーズに始まった。