指先の魔法
14
「バイトは続けさせて下さい!」
会うなりガバッと頭を下げられ、さすがの海藤も少し面食らったように目を見張った。
(再会した第一声がそれか・・・・・)
怯えられるか、泣かれるか、嫌悪されるか、どちらにしても自分にとってマイナスしか考えていなかった海藤は、予想外の真
琴の態度に次の言葉が出なかった。
「あのバイトは、俺が自分で探して、やっと慣れて、俺にとっては大事な場所なんですっ。お願いしますっ、俺からあの場
所をとらないで下さい!」
合格が決まり、高校が自由登校になった時、何度も上京して探したバイトのようだ。
高校を卒業するまでは週4日毎日実家から通い、3月下旬上京してからはほとんど毎日のように通っていると報告を受け
ている。
慣れない土地での大切な場所を、真琴はどうしても手放すことは出来ないのだろう。
海藤は黙って聞いていたが、内心は面白くなかった。真琴の信頼をそれ程勝ち得ている仕事場の仲間達が邪魔に思い、
いっそ店を潰してやろうかと思う。
綾辻の報告を聞いて、逃がさないつもりで倉橋を迎えに行かせた。
所有しているマンションの中で一番いい物件を選んで、早朝のこんな時間に海藤自らが出迎えたのだ。
しかし一方で、海藤の想定外の言動をとる真琴が面白くて、もっと傍で見ていたい気持ちが湧き上がる。
それには、多少の譲歩も必要かと、海藤は冷たく整った顔に僅かな笑みを浮かべた。
「そのおねだりを聞いてやった、俺への見返りは何だ?」
「見、見返り?」
「まさか、ただで希望を聞いてもらおうとしているのか?」
眼鏡の奥の切れ長の目でじっと見られ、真琴が戸惑っているのが分かる。
無理矢理連れて来て、その上バイトを辞めさせるという勝手な言い分に、真琴は正当な権利を言っているだけなのだが、
海藤は立場を逆転させ、さも真琴の方が無理難題を言っているという空気にさせた。
長い間裏の世界を生き抜き、今や経済界にまで進出している海藤の巧妙な手腕に、まだまだ世間知らずな真琴が敵う
はずはなかった。
(俺の前に立っているだけ、雑魚とは違うがな)
どんな答えを出すのか、何時もなら無駄に思える沈黙も、海藤は楽しむことが出来た。
「あの」
しばらくして、思いつめた表情の真琴が口を開いた。
「俺、お金なんて持ってなくて・・・・・」
「金?」
海藤ほどの地位にいる男が一般人の、それも学生に金を要求するように見えるのかと思うと、さすがにまなざしも剣呑なも
のになってしまう。
「俺が金を要求するようにみえるのか?」
「そ、そんなことはないんですけど、でも、俺の渡せるものって言ったら、あ、真咲(まさき)兄(にい)のとこの野菜とか、あ
の、無農薬なんですけど、甘くて美味しくって、俺も送ってもらってて、後、真弓(まゆみ)兄の焼いたパン、食パンが美味し
いんですよ、行列が出来るほどでって・・・・・俺、何言ってんだろ・・・・・」
「・・・・・」
「でも・・・・・ごめんなさい。俺は何も持っていません・・・・・」
「あるだろ、価値のあるものが」
「え?」
本気で分からない様子の真琴を見て、座っていたソファから立ち上がった海藤は、びくっと一歩後ずさった真琴の頬に軽く
指を触れた。
わざとあの夜を連想させる行動を取ると、見る間に真琴の頬が紅潮するのが分かった。
「あ、あの?」
どんな意味でさえ、真琴の心にも身体にも、あの行為は消せない事実として残っているのだろう。
紅潮した顔は見る間に青ざめたものに変わっていく。
可哀想とは思わなかった。これは海藤に望まれた真琴の当然の運命なのだ。
「お前自身だ」
「そん・・・・・」
「お前が俺から逃げないと誓えば、お前の周りの者には手を出さないと約束しよう」
「し、信じられる、ほ、保障は?」
無意識ながら言質を取ろうとする真琴に、海藤はそっと目じりのホクロに唇を寄せた。
「なっ?」
反射的に逃げようとする真琴を長い腕の中に拘束し、その甘く響く声で言った。
「いったん口に出したことは履行する」
「か、勝手にそんなこと言われても・・・・・」
「俺が譲歩したんだ。お前も歩み寄るべきだな」
「し、信じられない」
呆然と呟く真琴の細い身体は、既に海藤の腕には心地いい。
せめて傷が治るまでは手を出さないつもりだが、海藤はそれを守れるかと珍しくはやる心を自覚していた。
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