指先の魔法
17
翌朝、明日の準備で、海藤は何時もより早くマンションを出た。
昨夜から今日の夜のことが気になって仕方がなかった真琴はなかなか眠ることが出来ず、起きたのも遅くて、朝目覚めて
海藤がいなかったことに少しだけホッとしていた。
「前もって言うから気になっちゃうんだよ〜。いっそのこと、いきなりの方が・・・・・って、そっちの方が問題だろ、俺っ」
思わず洩らす自分の独り言に自分で突っ込みながら大学に行く準備を済ませると、まるで見計らったようにインターホンが
鳴った。
(そういえば、新しい人が付くって言ってたけど・・・・・)
送り迎えは必要ないと何度か言ったが、そのたびに却下されていた。
何時もは倉橋か綾辻が海藤に付き添って来てくれたが、もともと幹部である彼らが大学生の送迎をするというのはかなり
特別なことで、何時も悪いなと恐縮はするものの、真琴にその地位の高さは解らなかった。
「倉橋さんと綾辻さん以外って・・・・・他のヤクザさんって、どういう感じなんだろ・・・・・?」
倉橋も綾辻も、およそヤクザらしくはないが、本物のヤクザというものがよく解らない真琴は少し不安に思う。
「あ、来た」
再びインターホンが鳴り、真琴は慌てて玄関のドアを開けた。
「駄目じゃない、ちゃんと確かめてから開けないと」
「あ、綾辻さん?」
そこには、お洒落なスーツ姿の綾辻が、モデルのように綺麗に立っていた。
「たとえオートロックでも、もう一度相手を確かめてからドアを開けること。いいわね?」
「は、はい。でも、今日綾辻さんが来てくれたんですか?海藤さんは新しい人をって言ってたんですけど」
「私は今日の夜から発つのよ。しばらくマコちゃんに会えないから、ナイト役を買って出たわけ。あ、新しい子は車で待って
るわ」
「すみません、何時も何時も。学校の行き帰りとか、バイトとか、俺1人でも全然大丈夫なのに」
「・・・・・まあ、こちらの都合もあるわけだから。遠慮なんて全っ然必要なし!」
「はい」
過保護な姉のように言い聞かせる綾辻に、真琴は素直に頷いた。
エレベーターで地下駐車場に向かっていると、綾辻が悪戯っぽく笑いながら真琴の顔を覗き込んだ。
「寝不足ね」
「え、まあ、ちょっと」
「もしかして、社長に何か言われた?」
「なっ、なんで知ってるんですかっ?」
思わず叫んでしまった真琴の顔は真っ赤だ。
見るだけで丸解りな真琴の態度に綾辻は笑った。
「2週間近く禁欲してたんだもの。そろそろ手を出す頃かなって・・・・・あ、私が言ったって内緒よ?」
「だって、俺、まだ怖いし・・・・・、大体男同士なんて、俺、今まで男を好きになったことなんてないし、絶対暴れて抵抗す
るって思うし・・・・・」
「まあ、初めがあれじゃ仕方ないけど。ヤクザっていうのは気にならないの?」
「そういわれても、実際海藤さんが怖いことしてるの見たことないから、あんまり実感がないんです」
目に見えた暴力は、あの夜、自分に対して行われたことだけだ。絶対に忘れることはないと思っていたのに、体の傷が癒え
るのと比例するように、記憶は過去のものになっていった。
(本当は海藤さんのこと、嫌いとは思えなくなったし・・・・・)
うまく丸め込まれたのかもしれないが、今の真琴にとって海藤は既に憎む相手ではなくなってしまった。自分に対する優し
さが本物だと、理屈ではなく本能が感じているのだ。
心を許すのと、身体を許すのと、全く違うようでいて実はとても似ているのかも知れない。
自分をレイプした相手と同じ家に住み、一緒に食事をとる。怖いという思いが無くなった時点で、真琴の心は既に海藤を
許し、受け入れているのかもしれない。
しかし、身体はどうだろうか。何も知らない身体に与えられた衝撃は大きい。仮に海藤を受け入れようと心で思っても、身
体は拒否をしてしまうかもしれなかった。
真琴が感じている恐怖はセックスという行為自体というより、自分でも想像出来ない自分の身体の反応だった。
「噛み付いたり、引っ掻いたりするよ、多分・・・・・」
小さな声で呟く真琴の頭を、綾辻はポンポンと軽く叩いた。
「大丈夫」
「・・・・・どうしてそんなこと言えるんですか?」
「男の子には解らないかもしれないけどね、子猫がじゃれてくるのを怒る男はいないものよ」
「・・・・・子猫?」
謎の言い回しに、真琴は不思議そうに繰り返した。
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