指先の魔法
4
走り出した車の中、助手席に座っていた倉橋はバックミラーに映る男の顔を見た。眼鏡の奥の目は閉じられていたが、そ
の頬には常に無い笑みが浮かんでいる。
面白くも無い情事、それも結局は抱くことも無かった無駄な時間を過ごしたわりに、男の機嫌はかなり良い。
「気に入りましたか?」
「《森の熊さん》か?」
「熊というより、赤ずきんのようでしたが」
珍しい倉橋の軽口に、男は再び笑い声を漏らした。
「開成会会長の俺に、約束だとはな」
「見た目以上に幼いようですね」
「ま、懐かしい言葉だ。思い出したか?克己」
「・・・・・そうですね」
「あのぶんじゃ、俺がヤクザもんとは分からなかっただろうな」
「普通なら縁がないですから」
「・・・・・そうだな」
関東最大の暴力団『大東(だいとう)組』の傘下、『開成(かいせい)会』の3代目組長、海藤貴士(かいどう たかし)、
それが男の肩書きだった。
海藤は前開成会組長であった菱沼辰雄の甥にあたり、幼い頃から後継者として育てられていた。
しかし、先を見越していた菱沼は海藤を経済ヤクザにするべく一流大学に進学させ、在学中に司法試験も受けさせ、
見事在学中に合格した。
海藤も腕力だけでは生き残れないことを十分理解し、組とは一線をおいた経営コンサルタント会社を設立して表の世界
の経済界にも進出し、今や組への上納金は最高額で、まだ31歳の若き経済ヤクザとして名をとどろかせる様にまでなった。
そのうえ、武闘派であった菱沼の後継者らしくかなりの武道の腕の持ち主で、若頭の頃は先頭を切って出入りをし、今だ
負けなしという逸話も持っていた。
その片腕でもある倉橋克己(くらはし かつみ)は、海藤の大学時代の2年先輩にあたる。
倉橋は弁護士の両親を持ついわばエリートで、自身も卒業後検事になっていた。
全く違う世界の二人が再会したのは四年前の夜の街。『おもしろそう』・・・・・ただそれだけの理由であっさりと検事を辞め
た倉橋は、短期間のうちに裏の世界に溶け込んでいった。
常に共にいる二人の信頼関係は強固で、海藤に意見できる貴重な存在として今や組のNo.2だ。
「そういえば、社長」
海藤が『組長』とも『会長』とも呼ばれることを良しとしない為に、表の会社での役名である『社長』と呼ぶことが暗黙の了
解になっている。
ただし、スマートに呼ぶ倉橋以外の組員達は頻繁に呼び間違え、海藤の冷えた眼差しを向けられて震え上がる者も多か
った。
「女はどうしましょう」
「放っておけ」
圧倒的なカリスマ性を持つ海藤はその頭脳や経営手腕だけでなく容姿にも恵まれており、一夜だけの関係でもと切望
する女が絶える事は無い。
今夜の女もその中の一人でしかなく、海藤は名前さえ知らなかった。
「高校生か?」
「バイクは運転できる歳ですね。中学生ではないでしょうが」
「色っぽい顔してたな」
「調べますか?」
どんな高級な女でも選び放題の海藤が、誰かを気にすることなど今まで無かった。そんな海藤が一人の男(と、いうより
少年といってもいいが)を気にするなど初めてだ。
「お前も気に入ったんだろ?」
海藤は眼鏡を外すと、ミラー越しに倉橋と視線を合わた。もともと視力は悪くは無く、自分より年嵩の組長達に対する為
にだけ眼鏡を掛けているのだ。
眼鏡という媒体を通さないと海藤の視線はかなり鋭く、他の者なら震え上がるその視線に、倉橋だけは恐れることも無く
言葉を続けた。
「清水にピザの宣伝をしたようです、美味しいと」
真琴を下まで送った組員の報告を思い出した。
その言葉に、海藤は更に楽しそうに笑う。
「店員の鏡だな」
「うちに欲しいくらいですよ」
「全くだ」
怯えながら、震えながら、それでも自分に対していた真琴。可愛らしい容姿よりも先に、その言動が気に入ってしまった。
もっと話したい、傍で見てみたいと思った。抱くのは簡単だが、それだけで終わってしまうことはしたくなかった。
(この俺が・・・・・な)
中学に入る前に既に女を知っていたという海藤は、女関係では全く不自由はしておらず、家のせいで遠巻きにされること
もあったが、それ以上に強烈なカリスマ性で人を惹きつけてきた。
だからこそヤクザという自分の立場を気にも留めなかったが、真琴がそれを知った時どう思うか、少なからず気にしている自
分が滑稽な気がする。
黙り込んでしまった海藤に、倉橋は視線を前方に向き直しながら言った。
「ピザを頼みますか?」
「ん?」
「配達人は指名しましょう。美味しいピザを届けてくれますよ」
「ピザか」
そういえば、恐怖を誤魔化す為だろうが、真琴はしきりに店のピザを褒めていた。配達ならば嫌でも来るだろう。
「若い奴らは結構食うだろ」
「社長の奢りだと言ったら喉に詰まりそうですね」
「優しい若頭の驕りだと言え」
「分かりました」
たった今分かれたばかりだというのに、既に会いたいと思っている。
海藤はゆっくりと目を閉じ、深くシートに身を沈めた。
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