指先の魔法










 「はい、ありがとうございます、《森の熊さん》です」
 非現実的な出来事から一週間、真琴はやっと何時もの日常を取り戻していた。
あの夜から2、3日は何時あの男達がやってくるかとびくびくしていたが、何もないまま時間は過ぎ去り、何時しかあの出来
事は夢だったのかもと思うようになっていた。
 「あ、酒井さん、何時もありがとうございます」
 午後九時を回り、掛かってきた注文の電話は常連の客で、真琴が何時ものように世間話をしながら注文を聞いていると、
別の電話が鳴って手の空いている者が取った。
 「ありがとうございます、《森の熊さん》です」
マニュアル通り対応している声が聞こえる。
しかし、その声の調子は次第に戸惑ったようなものに変わった。
 「え・・・・・と、それは・・・・・」
(どうしたんだろ?)
 「以上でよろしいですね?ありがとうございました」
 電話を切った真琴が視線を向けると、先輩が言いにくそうに言った。
 「西原、配達の注文なんだけど・・・・・」
 「はい」
 「配達、お前指名なんだ」
 「指名?」
今までも電話対応をした真琴目当ての指名は、本人に伝える前に先輩達が断ってくれていたので、こうして面と向かって
聞かれるのは珍しいことだった。
忙しい時ならば直ぐに頷くところだったが、今日はまだ配達担当の手は空いているし、先日のこともあったので、真琴は申
し訳なさそうに眉を下げた。
 「すみません、断ってもらっていいですか?」
 「俺もそう思ったんだけどさ・・・・・と」
先輩は慌てて電話を保留に切り替える。
 「なんか断れない雰囲気でさ、お前が来てくれるなら20人前注文するって言ってるし」
 「2、20人前?」
 「断るんなら本人がってさ。どうする?」
 ・・・・・急に、真琴は背中にゾクッとしたものを感じた。
 「西原?」
 「わ、分かりました」
 怪訝そうな視線に強張った笑みを向けると、真琴は気のせい気のせいと自分の心に言い聞かせながら、保留になってい
た受話器を取った。
 「お、お電話代わりました、西原ですけど・・・・・」
 「お仕事ご苦労様です」
 「!」
聞き覚えのある穏やかな声が、真琴の心臓をわしづかみにした。
 「配達をお願いしたいのですが、よろしいですね?」
真琴が絶対に断るはずはないと確信しての言葉に、今更嫌ですと言えるはずもない。
 「・・・・・この間のとこですか?」
だったら嫌だという真琴の表情が見えたかのように、電話の主は笑みを含んだ声で言った。
 「いいえ、今日は会社の方にお願いします。メニューはあなたのお勧めで、一番大きいサイズを10程。もっと注文した方
がよろしいですか?」
 「い、いいえ!あんまり多いとバイクがこけちゃいそうですから!」
 真剣に言ったつもりだが、笑いのつぼに嵌ったのか相手は声を出して笑う。
 「それでは、あなたの持てる範囲でお願いします。場所は・・・・・」
 言われたのは、あの夜のマンションとは正反対の、オフィスビルが立ち並ぶ場所だ。ビルの名前も聞いて、本当に会社に
配達するみたいだと、真琴は小さく安堵の溜め息をついた。
 「分かりました。会社を訪ねればいいんですね?」
 「はい。入口で私の名前を言ってくだされば分かるようにしておきます」
 「名前・・・・・倉橋さん、ですよね?」
確認するように言うと、少し間が空いた後、
 「そうです。覚えて頂いて、嬉しいですよ」
 と、倉橋は柔らかく肯定した。